2011年11月22日火曜日

丹後小町が選んだ相手は豪商の息子だったが、貧困だけが待っていた


Once upon a time 1969

 すれ違っただけで、この女性は聞こえない、と思ったIさん。
 奥さんに聞くと「ただ歩いていただけ、手話も知らなかったし。」「いつのことかも知らなかったわ、その頃は。」とあっさりした返事。

探して、探して、探して、やっと会えた女人

 モジモジしたIさんは宮津だったと言う。
 「それで、」と私は聞いた。
 戦前の自転車なんて持っている人の少なかった時代、豪商Iさん宅には自転車があった。

 Iさんは、昼休みになるとすぐ自転車を必死にこいで、Iさんの奥さんと「すれ違った場所に行き探す」、見つからないで慌てて帰る。
 仕事が終わるとまた自転車で、休日は一日中探し回った、とIさんは言う。
 「それで、」と聞くと。
 Iさんは、「探す」と言う手話を次第に大きく(広げて)していく。
 「で、みっかったん。」と私。
 Iさんはしょんぼり。


 何ヶ月も繰り繰り返しさがして、次第に地域を広げていったとのこと。
 当時の道は舗装もされていない細い道で山道の高低差も多かっただろうが、Iさんの話にはそれが出てこないで、「探す」「探す」の繰り返し。
 同じ繰り返しについ、「それで見つかったの」と結論を聞いてしまった。

雨が降ろうと暑かろうと
   大雪が降ろうと全然気にせず通い詰めた

 Iさんの表情は急に柔和になった。
 岩滝町を走っていたときに、ついに、ついに、すれ違った女性に出会った。

 1年ははるかに過ぎていた、と言う。
 「一度すれ違っただけで、その女性とわかったん。」と聞くと、Iさんはコックリうなずく。
 「で、奥さんはどうIさんのこと覚えていたの」と聞くと。
 「全然、知らなかった。」
 「でも、聞こえなくて寂しい思いをしていたとき、聞こえない人と出会えてうれしかった。」
と言う。
 それから、Iさんは奥さんの住む岩滝町に通いづめ。

 雨が降ろうと暑かろうと、大雪が降ろうと全然気にせず通い詰めたとのこと。

知らない人がいないほどの丹後小町と呼ばれた美人

 「私は、丹後小町で有名だったから、」と奥さん。
 「え、タンゴコマチ?」と言うと奥さんは、自分の写真アルバムを持ち出してきた。
 その写真を見てびっくり、どんな女優よりも美人だ、と言うほどの美人。

 ついつい、「ウソや」と言ってしまったら、Iさんは真顔で「ホント」「ホント」の手話を繰り返した。
 すると奥さんは、今はこんな姿顔になったけれど、若い頃は妹の友だちが「姉さんの写真をとってこい」と男友だちに脅されて、黙ってアルバムから「私の写真」を剥がしてもっていった。

 後で気がついて、「ほらここにのり付けした写真を剥がした痕があるでしょう」とその痕を見せてく
れた。
 数カ所にその痕があった。


でもね、
私は聞こえないもの同士では話せる生きていけるということを

 そこで冗談でIさんに「丹後小町やからほれたんやろ」と言うと、これまた真顔で「ちがうちがう、聞こえないもの同士で話したかったんや」と言い出して、ここから冗談と腹を抱えるいつもの話になった。

 丹後小町で知れ渡っていたIさんの奥さんのところには、数知れないほどの結婚話が持ち込まれたとのこと、「でもね、私は聞こえないもの同士では話せる生きていけるということを一番の幸せと思っていたからすべて断ってもらったの。」と奥さん。
 Iさんの家は、身分が違うと大反対。
 しかも「聞こえないものと結婚するなんて許せん。聞こえる人といくらでも結婚出来るではないか。」と家族、親類の大反対があった。

将来の不安はない、もともと何もなかったのだから

 だが、Iさんは家との縁を切られてでも結婚したかった。
 着の身着のままで奥さんをつれて京都に来た。
 奥さんは初めて汽車に乗る喜びで、不安はなかったとのこと。
 保津峡をうねうね走る国鉄山陰線の景色を見るのは初めてでとても美しくてきれいだった。

 嬉しかった、汽車に乗れて。
 それが、二人の新婚旅行で、最初で最後の旅。
 後は働きづめの二人の生活。
 「私はもともとなにもない家で育ったから、なーんとも思わなかった。けど、主人は」

と言うと、Iさんは、「同じ」「幸せ」を繰り返した。

なにもない家で育った奥さんと
 有り余る贅沢が出来た家で育ったIさん、でも

 なにもない家で育った奥さんと有り余る贅沢が出来た家で育ったIさん。
 でも、二人の気持ちを結びつけたものは、同じ聞こえないという深い絆だった。
 2011年の夏前。

 岩滝町にある与謝の海養護学校を訪ね、そこの校長をしていた故A先生の加悦町の家を訪ねた。二つの町は、今はひとつになり与謝野町となっている。
 車で走りながら、Iさんが通ったであろう旧道を見ていたがずいぶん距離がある。

 あらためてIさんの想いの強さを知ると共に「二つのこと」に気がついた。
 ひとつは、私が記録をしているときに、あるろうあ者が戦争孤児となって京都駅で万引きなどをしていて飢えをしのいだときに、いろいろと助けられたことがある、と話していたことである。
 その戦争孤児を集めて、戦後すぐ生活と学習を教えたのが京都師範の学生だったA先生たちの学生だったこと。
 その取り組みをした少なくない学生が、教師になり京都の障害児教育に取り組み初めたと言う事実だった。

  もっと詳しく聞いておけば、という反省もしたが、今ではどうしようもないという痛恨の思いだった。

 もうひとつは、Iさんが手話で現した「加悦」=蚕という手話表現のことだった。


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