教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(36)
「実は一日目の夜は、僕にとっていやなほど落ちつきと冷静さを失っていたように思う。
それは入浴への誘いに応じられない、自分の精神的苦悩があったからだろうか。
お寺に着いた後すぐ集まりがあり、今後の予定を報告されて、男子は銭湯へ行くことになっていた。
その時から意識していたと思う。
皆に知られまいと平静に振るまっていたが、その時、内心の僕は、銭湯なんて物心覚えてからほんの一度きりも入ったことがない。
高校進学までは、養護学校の寄宿舎にずうっといた関係で、肢体障害をもつ友人としか風呂に入った経験がない。
自分自身、小児まひによる肢体障害でびっこをひいていることに健康な人間に対して常に引け目と恥しさを感じている。
それで高校の修学旅行の大浴場なんて知らない。
だから今だって、全然気がない、そう思った。
しかし、銭湯に行こうともしない自分に仲間は、当然のように自然に誘ってくれるが、その入りたくない自分が、歯がゆくてたまらない。
仮病を使ったつもりはないが、旅の疲れと、頭痛を理由に断わった。
二日目の夜が来て、今日も銭湯があるわけだが、入らなければならない義務はない。
しかし今日は昨日と違っていた。
もうこれ以上仲間の誘いを拒むことに耐えられない。
自分が挫折するだけ。
仲間とのかかわりは、僕にいたわりと同情の気持でしか接してくれず、せっかくの友情もあだになってしまうだろうと悟った。
だからF先生の『ここの(お寺の)風呂(一人用)に入らないか?』という勧告もすげなく断わった。
今、僕は仲間を裏切ってしまったことに肩身がせまい思いがしてならない。
すまない。
仲間のしたことは、それが思いやりなのだなあと思った。
僕は、銭湯に行くことにぐずぐずしながら応じた。
不安と恥しさを隠しきれずに生まれて初めての銭湯へ行った。
銭湯の更衣場で仲間は、自分が補装具をはずしかけているのを好奇心で見る。
仕方がない。
そこで色々と仲間から手をかしてくれたことに何もできなかった自分。
入浴後の気分は、石けんの香りと自分では言えないスッキリしたさわやかな格別さがあった。
そのことをだれかに打ち明けたいと思い、F先生やM君らと肩を並べながらお寺への帰路に着いた。」
スッキリとしたさわやかさは、仲間の自然な誘いに答えられたからであろう。
健康な人に対するひけ目、恥しさそれは当然のごとく障害者に持たされてきたのである。
これを少しずつのり切ってゆこうとする動きが山城高校の生徒たちので「スッキリ」と芽ばえ、拡がってきた。
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