2012年8月4日土曜日

産まれて初めて銭湯に行くことが出来ました みんなありがとう


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(35)

        数十人、数百人という生徒たちとの教育実践は書きがたい

 いつも思うのだが、教育実践を書く時、ある特定の生徒に絞り込んで書くことは、書きやすい。
 ところが、数十人、数百人という生徒たちとの教育実践は書きがたい。


 A君は、C君はという例でよく教育実践が書かれたり、ある特定の重複しない障害児の教育実践は書きやすいだろう。
 だが、これらの教育実践を読んでいて、いつも「作り話」や「誇張」されていることが多いと感じつつ、教育実践をすすめている教師はある生徒だけにしか目が向けられていないか、実践報告をするために事前に実践報告をつくっているかのように思えてならない。


 理解方法ばかりで 「いわゆる学習障害」
    生徒自身の要求(needs)がえがかれていない

 ある教育実践報告で1時間の授業のすべての生徒の発言を克明に書いている先生がいるが、どのように考えても授業中に録音していたとしか思えられないのは言いすぎだろうか。

 なぜなら授業をしている時は、教師は必死になっているので冷静に生徒の発言を記録している「間」なんてとてもないからである。
 最近の「いわゆる発達障害とする生徒」への教育実践を読むと、あまりにも詳細すぎて、他の生徒とのかかわりや、他に障害や病気を持つ子どもたちの事は注視されていないのではないかと疑問を持つことが多い。

 一例をあげると「いわゆる学習障害」生徒への理解方法ばかりで、「いわゆる学習障害」生徒の要求(needs)がえがかれていないことが多すぎる。

 これは、教育の目的なのだろうか。
 この項では、E君のことを中心に書いているが、参加した全員の記録もある。

       タクシーのライトに浮かび上がってきた生徒たちの集団

 さて、金沢の集会で生徒の取り組みのことを書いたが、教師たちは、集会に参加する生徒たちのために集会担当者と集会前後にいくども話し合いを重ねて、いくつかの条件の改善をねがい出たが、当時はほとんど理解がはかどらなかった。

 教師が金沢から井波へ帰る時は、最終バスはすでになく、駅からタクシーでお寺の本堂をに向かったが、お寺の近くに来ると生徒たちの集団がタクシーのライトに浮かび上がっていた。

 ゆっくり、ゆっくり歩く姿を見て、夜の井波(欄間づくりなどの盛んな街)を散歩でもしているのかなあ、と思ってお寺に着いて、夜の今日の集会で学んだことの交流会を開いた。

  産まれて初めて銭湯に行くことが出来ました みんなありがとう

 参加した生徒は、いろいろな感じたことを立て続けに話しはじめた。
 その時、E君は、半ば泣きそうな顔で笑顔を浮かべて

「今日。産まれて初めて銭湯に行くことが出来ました。みんなありがとう。」

「今までは、養護学校の時の生徒以外と一緒に風呂に入ったことはなかったし、みんなだけでなく障害のない人々が入っている大浴場に入るのは勇気がいりましたが、銭湯ののれんを潜って出た時は、何かすっきりした気持ちでした。」

 生徒も教師も拍手するとE君は、照れくさそうにしながら喜んだ。

 集会終了後、参加者でつくった感想・報告を山城高校の生徒に配ったが、E君は次のようにその時の気持ちを次のように書いていた。

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