2012年8月31日金曜日

今度は、自由があるが仲間はなし 哀しく 逃げて

 
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 おさえられてはいたけど、仲間がいた。
 自分と同じ障害の仲間が。
 天は我に二物を与えず。
 これホントですネ。

 中学校では、自由がなかったが仲間がいた。
 今度は、自由があるが仲間はなし。
 でも、1人の方が楽だった。

    こっけいでなんだか哀しくも思え

 とにかく自由なんです。
 誰も私が耳が不自由なんてこと知らない。
 誰もかもがみんな当り前の顔をしている。
 その中に、耳の聞こえない異端児がいる。
 なんだか、こっけいでなんだか哀しくも思えた。
 しかし…毎日が緊張の連続だった。
 やはり耳が聞こえないって、ホンマに不便だなあ。
 私、耳、聞こえんのだなあ。
 はっきり思い知らされた。
 
  なぐさめる者もなし。
 わかってくれる者もなし。

 一番つらく恐かった。
 ビクビクしたり、オドオドしたりするようになった。

  
                         何を恐がってるの なんで

 わかってる。
 耳が聞こえない、それだけなのに。
 もっとしっかりしなさいよ。
 身体が思うように動かない。
 なんで。何を恐がってるの。


 私、耳、聞こえへんって言ったらおしまいでしょ。
 なんて言えないの。
 大丈夫。
 誰も気づいてないから。
 落ちつきなさいよ。
 自分で言い聞かせるしかなかった。


                  全てがイヤだった

 いや、それよりも…第一に、暗い学校がイヤだった。

 

  暗い教室で勉強するのがイヤだった。
 全てがイヤだった。

 なんで、暗いところで明かりをつけて勉せなあかんの。
 なぜ暗い道を自転車でこがなあかんの。

 山城へ行って勉強するのがバカらしくなった。
 友達もいない。
 ましてや、耳も聞こえん。
 バカらし。


     なんでもかんでも
       耳のことを書いた

 自分がなさけない。
 入学式の時に感じた不安はこのことだったのか…


 それから山城をよくサボルようになった。
 私は逃げていた。
 今、思うと、なんでもないことでくよくよ考えていたな。


 考えすぎだったな、まあ、友達も同じようなもんだったって。

 慣れてなかったからかもね。

 初めて授業を受けるときプロフィールみたいなものを書けって紙を各教科の先生から渡された。
 必ず、私は難聴のコトを書いた。

 耳の聞こえない者がいるってことを少しでも頭の中に入れてくれるために。
 なんでもかんでも、耳のことを書いた。

 現国のプリントでも、感想を書いてって言われても、最後のすみに、耳、聞こえませんので……、って書きおきしたりした。

 とにかく、いるってことを頭の中に入れてほしかった。
 方法はそれしか思いつかなかった。
 アホだネー一。
 先生もいい人で、よくしてくれました。

 やはり、耳が聞こえないっていう問題は、つきまとってくる。
 いろいろ考えさせられる。

 でも、そんなに、中学校の時みたいに、いつもいつもってことなかった。

 

 ある日、フトていう具合。

    みんなが
 誰もかもが
 同じ生活だった
        とは言えない

 普通の人とちがった4年間だったか?
 そうかも知れない。


 知れないが、健聴者も、みんなが誰もかもが同じ生活だったとは言えない。

 やはり、人それぞれ。

 十人十色の生活だったと思う。
 

 ただ、私の場合、耳が聞こえない不便だった時もあったなという生活だった。
 

 そうかも知れません。
                 (つづく)


                                       Esperanza
 

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