2012年8月8日水曜日

机上の「空論」と苦悩の中から生みだしたすべての生徒がわかる教科教育


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(37)

  集団の中の生徒の発達にふれられない
 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン・特別支援教育

  金沢で学習した聴覚障害生徒たちと健聴生徒は、費用の点もあり白川郷の合掌造りを見ながら帰京した。

 そしてめいめい書き綴った感想文を記録されて山城高校に報告された。
 翌年は、埼玉の集会にさらに多くの聴覚障害生徒と健聴生徒が参加したが、この時、新幹線が大幅に遅れ(特急料金は障害者割引の対象にならかった。)特急料金の払い戻しがあり、誰言うとなしに


「この費用で印刷して記録を残し、自分たちが学んだことをもっと多くの人々に知ってもらおう」

ということになり、冊子を印刷して報告書を配布したら、お金を出して買ってくれる人がいて、毎年の集会は印刷した冊子を出すことが出来るようになった。

 この中で、多くの聴覚障害生徒と健聴生徒が友に学び大きな成長を遂げた。インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン、ましてや特別支援教育はこれらのことに関わることを一切ふれていない。

 教育における集団のことを。

 教科指導を「いわゆる学習障害」への理解の欠落に
  すり替える論理はその後の子どもたちに大きな影を落とす

 最近「発達障害(アスペルガー症候群、学習障害等)のある児童・青年の教育相談と学習指導のあり方について」という「いわゆる学習障害」の学会報告を読んでいて非常に驚いたことがある。

 事例報告後の質疑応答で、学校教員の男性から、

「教科指導について、学校へのアドバイスをどのように行っているのか?」

という質問に対して

 報告者からは、中学や高校では教科指導についてアドバイスを行っていくことはまだまだ難しい現状があり、実際には個別の配慮をいかに行っていくかは各教科の担任によるところが大きいといった回答。

 さらに、学校全体として障害の認識がされながらなかなか対応がされない要因として、「LD=障害=できない子」といった教師が抱く子どもの障害像と実際の子どもの実像が結びついていないといった点や、「しんどい子どもは他にもいる」といったような発達障害に対する理解のなさが背景にあるという意見が出された。

 「中学や高校では教科指導についてアドバイスを行っていくことはまだまだ難しい現状」
 「 個別の配慮をいかに行っていくかは各教科の担任によるところが大きい」  「LD=障害=できない子といった教師が抱く子どもの障害像と実際の子どもの実像が結びついていないといった点や、しんどい子どもは他にもいるといったような発達障害に対する理解のなさが背景にある」


と報告され、教科指導についてのアドバイスが出来ないのに「発達障害(アスペルガー症候群、学習障害等)のある児童・青年の教育相談と学習指導のあり方について」というテーマなのに「学習指導のアドバイス」が出来ないまま学会報告とされているのである。

  教科指導に対する実践提起が出来ない
     研究者の破綻とすり替え

 そして、教科担任次第、他にも「しんどい子どもがいる」として「いわゆる発達障害児の理解のなさ」が教科指導でも現れて「いわゆる発達障害」の子どもが蔑ろにされていると言いたいようである。
 ここでは、教科指導に対する実践提起が出来ない報告者の未熟さを「いわゆる発達障害」の理解の欠落があるとする教科担任の努力義務にすり替えられているだけでしかないと言えよう。

 その一方、別項で、
 学習困難(学習障害)の特徴として、学習困難には、さまざまな理由による学習不振、低学力などがあります。

 知的理解に遅れはないのに、著しい学習困難があり、読みや書きなどの基礎となっている認知的諸能力に弱さがある場合を学習障害、読み書き・計算障害といいます。

 通常の学習方法、繰り返し反復学習は、かえって有害な場合が多く見られます。

などなどを書いているのだから、本当に学校で学ぶ生徒たちの中にいる「いわゆる発達障害」の子どもたちの事を真に理解しているかどうか極めて疑わしい。

 教育は実践の科学であり 机上の「空論」でない

 
 もっとハッキリ書けば、

「教科指導について、学校へのアドバイスをどのように行っているのか?」
に対して、応えることが出来る実践と研究がないばかりか、机上の「空論」とも言えるとも思える。
 

 現在、このようなことが平然と言われ、ある特定の特異な子どもたちだけの理解を強調することは、生徒の学習権を認めないだけでなく、必要以上に生徒間の対立といじめ、教師間の対立、学校に対する不信を煽り立てるだけのことでしかないと言える。
 そして、問題が生じたら、そういう指導をした研究者の責任はとらず、責任を教師に転嫁するのである。

 山城高校ではじまった聴覚障害生徒と共に学ぶ教育は、以上述べたような考えや方法ではとっくに崩落していただろう。

 ただでさえ難しい教科指導を障害のある子どもたちと共に学ぶ方法を模索する取り組みは、特に山城高校定時制では激烈な論議と弛まない取り組みが必要であった。

 聴覚障害生徒の理解だけでは、問題は解決しなかった。

 ましてやしんどい子どもどころか、深刻な問題を抱えた生徒たちが圧倒的に多い中で、教科は大きな変革と教科の意味と生徒を変える源泉として考えられた。

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