教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
教える、学ぶ、教育要求を聞く、などのこと私たち教師の努めでもあるし、直接説関わる教科もちろん、出来るだけ幅広くいろいろな研究会に出て学習していた。
この時期、障害児学級のあるお母さんから教職員の機関誌に投稿された文章から、いろいろなことを学び、考えたので、1970年代初めのあるお母さんの文章を紹介させていただく。
障害児学級の生徒である前に
その学校の生徒のひとりひとりであるということを
現在、私たちの子どもは、小学校の障害児学級に通学しています。
その中で、私たちがいちばん大事に考えていかなければならないことがあります。
それは、私たちの子どもは、その学級の生徒である前に、その学校の生徒のひとりひとりであるということです。
ところが、実際には、親にとって学校の門は、遠慮がちに通う学級への通用門のように感じられることが多いのです。
持つことが出来ないのでしょうか
行ってみたい、きいてみたい、という希望すら
ある学校では、こんなことをききました。
音楽鑑賞(オーケストラの生演奏)の会があった時、その学校の先生(普通学級担任)は
「希望校だけがいく会です。静かにできない子どもは、ほかの子どもの邪魔になるから、行かないでください。」
と、いっしょに行くことを拒否されました。
行ってみたい、きいてみたい、という希望すら、この子どもたちは持つことができないのでしょうか?
学校とは……。
教育とは……。
勉強のできる子どもや、いわゆる.将来世の中で役にたつ子どもだけのためにのみあるものなのでしょうか?
先生から「おはようさん」と声をかけてもらうこともうれしいです。
手をつないでくださることもありがたいです。
けれども、障害児やその親たちのほんとうに願っているのは、できるできない、で、区別や差別をしないでほしいことです。
すべてを話してくれた
キラキラ輝く目や生き生きした笑顔の数々の写真
特殊学級の子どもは集団行動がとれないから、臨海学習には連れていかない。
この子らに手をとられて、普通学級の子どもに手がまわらないようなことがあっては困る。
特殊な子どもの扱い方を知らんから、よう指導せん。ーこんな声に対して、私たち親は、
「うちの子も、臨海学習に連れていってほしい。」
という強い要求を学校に出しました。
先生方は、最初、親が要求を出したことや障害の重い子どもの臨海学習参加ということに対して、たいへんとまどわれたそうですが、いく度か職員協議をする中で、
「障害児学級の子どもを除外して行なう学校行事があってはならない。学校体制の中で、障害児学級のことを考えていこう」
という姿勢で、親たちの要求にこたえてくださいました。
海の色、塩っぱい味、足もとをすくう砂、キャンプファイヤー、お友だちといっしょに寝た大きなかやの中……。
普通学級のお友だちや先生方とともにすごした三日間。
それは、この子たちにとって、どんなにすばらしかったことでしょう!
ことばで言わなくても、キラキラ輝く目や生き生きした笑顔を数々の写真の中に見つけたとき、私たちは、すべてを知ることができました。
I子ちゃんだって
自分でやってみたいことがいっぱいあると思いますよ
I子ちゃんは、自分ひとりでは何もできない子ども、と言われてきました。
おかあさんも、何もかもI子ちゃんの手や足の代りをして、それが彼女への最大の愛情だと思っていました。
あるとき、担任の先生からこう言われました。
「子どもって、期待されていると感じたら、がんばるものですよ。」
そのとき、おかあさんには、I子ちゃんに期待する、ということが、よくわかりませんでした。
「I子ちゃんだって、自分でやってみたいことが、いっぱいあると思いますよ。」
I子ちゃんのおかあさんは、ハッとしした。
今まで、おかあさんがI子ちゃんにとって良かれと思ってしたことはたくさんあっても、1子ちゃんが何を要求しているかなんて、思ってもみなかったことだからです。
たとえば、I子ちゃんが家でしかおしっこできない子どもだと思いこんでいたおかあさんは、遠足のときになると、前日から、I子ちゃんの大好きなお茶を減らしてでも、おしっこをもらさないように気を配りました。
それが、母親の愛情であり義務だと思っていたのです。
ところが、I子ちゃんは、ほんとは、自分がしたくなったときにどこのおべんじょででもおしっこができるようになりたかったのです。
今までI子ちゃんの伸びようとする芽をつみとってたのが、ほかでもない自分自身だったと気づいたおかあさんは、それから、I子ちゃんの要求に、いっしょうけんめい耳をかたむけるようになりました。
何百回となく出たり入ったり 床にすわったり
便器をさわったりのトイレめぐり
そうして始まったのがトイレめぐりです。
あちこちのトイレを何百回となく出たり入ったり、床にすわったり、便器をさわったり、入口が二つあること(男女の別)を知ったりする中で、I子ちゃんは、どんなお便所ででも、おしっこのできる子どもになっていきました。
「表へとびだすからといって、教室に鍵をかけないで〃」
「ひとりで食べられないからといって、食物を機械的に口の中へ押しこまないで〃」
「みんなと遊べないからといって、ひとりぼっちにしないで〃」
子どもだって、いつもいつも同じ所にいたくないと思います。
そこから、どんどん歩きだしたり、走ったりしたいにちがいないのです。
こんな、子どもの要求を正しく受けとめて、地域や学校の子どものひとりとして、いろいろな学習活動に参加させようと心をくだいてくださる先生方や職員の方々、そして学校ーこれこそ、私たちの願っていることなのです。
そんな中でこそ、対等平等のほんとうの意味や、子どもたちの教育の権利を守ることの大切さを、みんなのものにしていけるのだと思います。
Esperanza
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