教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
G君は再入学が認められたが、4年間。30過ぎで結婚し、子供も生まれる状況だった。
15歳の頃とまったく違った通学。彼の仕事にかかる家族の生活への責任。
やれるだろうか、と言う心配をよそに彼は日々、いそいそと学校にやってきた。
ホントウにいろいろ問題があった生徒なの
「学校がこんなにも楽しいとは、思わなかった。」
と言う彼の姿に彼をよく知る先生は、
「前のG君はどこに行ったんだろう?」
と首をかしげ、前のG君を知らない先生たちは、
「いろいろ話を聞いて、授業に向かったけれど、礼儀正しくて授業もきちんと受けて課題もやり遂げる。他の生徒が騒いでも、授業に集中。ホントウにいろいろ問題があった生徒なの?」
と言われるほどだった。
仕事におくれても教室に入る時は、頭を下げて静かに後ろの席に座る。
休まざるを得ない時は、前もって先生に言うか、プリントに、次は~だから休みます。と書いていた。
G君がもっと暴れれば暴れるほど全日制に入れる
しばらくして、G君がやってきて話があるという。聞けば、
「最初入学した時は、何もかもいやでこの学校や先生に反発ばかりしていた。そのことは、難聴児親の会の人々はとっくに知っていた。」N中学校難聴学級にいた時からそうだったから。
だからある親から、
「G君もっとがんばって。G君がもっとがんばれれば(注:暴れれば暴れるほど)定時制に難聴児を入れることが出来ないとなって、うちの子が全日制に入れるようになるから」
って励まされた。
「こんな俺でも役にたっのだと思ってますひどいことをした。アホなことしか考えられへんかったんやなあの頃は。」
先生たちは 心から俺を叱ってくれた
「それにろう学校の連中話していたら、高等部やのに山城高校定時制のレベルどころか、小学校レベルの勉強をやらされとる。
こんなことをしててもムダや。やめとけ、やめとけ、言って遊びに誘ったらぞろぞろついてきよった。」
「あとで、ろう学校から定時制の先生に文句言いに来たらしいけど、ろう学校の生徒は叱られてヘンのや」
「先生たちは、心から俺を叱ってくれた。でも、あの時は理解しようとしなかった。ゴメンな。」
「結婚式びっくりしたやろ。あれが、今までの仲間や。ハワイからわざわざたくさん来てくれよった。
けど、あれでお終い。もうサーフィンの世界にはもどらへん」
親の会の対立・亀裂
と聴覚障害教育の幅
G君の話を聞いて、想像以上に成長していることがよく分かった。
山城高校に聴覚障害生徒を受け入れるよう「陳情」した親の会の一部の親は、京都府教育委員会が受け入れを決めたにもかかわらず他の府立高校を受験したり、私学に行ったりしていたからである。
そのため親の会の中で対立や亀裂が生じていた。
また京都府教育委員会の一部には、「親の会の言うとおり受け入れたにもかかわらず、親の会は、バラバラなことをしているではないか。」と言う批判があった。
これに対して、私たちは聴覚障害生徒の進学の選択の幅を広げたものとしてとらえるべきであって、聴覚障害生徒はこの学校でなければならないとする考え方は、時代に逆行するものであると主張していた。
もう15歳でないG君は
もう15歳でないG君は、あらゆる授業、学校行事に参加し学び続ける一方、水面下で授業をサボる生徒やろう学校、難聴学級の生徒に学ぶことの大切さをねばり強く話していたらしかったが、そんなことは一切言うことはなかった。
そして、卒業を迎えた時、G君から
「先生。俺も卒業論文書いてもいいか。」
と聞いてきた。
もちろん賛成した。
「学校のまとめ・資料に載せてくれるのやなぁ」
「活字、になって残るんやろ」
と言ってきた。
その頃のG君は、子どももかなり話すようになって可愛くてたまらない、この子のためにと必死になって残業をしてふらふらの状況だった。
「無理はアカンで」
と言ったら、たしかに無理しないで原稿用紙を少しずつ持ってきた。
以下、順序どおり掲載する。
ストマイ注射をうってから耳がわるくなり
1歳半から耳の聞こえない世界に
私は、京都市のどんま中の町で生まれ、1歳半の時、カゼで高熱のため、はしかにかかり、ストマイ注射をうってから耳がわるくなり、1歳半から耳の聞こえない世界に入り、ここから生活を始めた。
その時、お母さんとお祖母さんも何かの病気で、中途難聴になり、複雑な家庭の生活であった。
( つづく )
Esperanza
0 件のコメント:
コメントを投稿