教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
親も学校に呼び出されて、親から私はおこられた。
その中で次第に親をうらむようになった。
なぜ私のような耳の不自由な子を生んで生かしておいたのか
なぜ私のような耳の不自由な子を生んで生かしておいたのか又、同級生もこんなに「不幸な姿」がある、と、世の中がいやになった、と開き直り、あやまったレールの方向に走り出した。
このことは、ますますエスカレートし、両親・先生はこのままで、ろう学校の生活をすごすと、「赤信号」になるということで、普通の中学校に難聴生のための教室が新しくできたため、私をろう学校からN中学校へ移るようにした。
両親・先生は、ろう学校から
N中学校難聴学級に転校させたが
それは京都で初めて難聴生のために作られた特別の学級であった。
聴覚の能力のある人に限られていた。
しかし、私は聴覚能力を持っていなかった。
でも、ろう学校にそのままいるとますます悪くなる一方であると親と先生が勝手に決めたらしく、聴覚能力より学力がすぐれていたから、向こう(N中)でおとなしくしてさえいれば、性格もかわるだろうと思っていたようである。
現実 一緒になると普通の人との話が通じなかった
結局、N中学校へ入り、普通の人と一緒に生活をするようになった。
先に述べたように、私が小学生の時家のむかいに普通の小学校があったこと。
普通の人と一緒に勉強をすることにあこがれていた。
しかし、現実、一緒になると普通の人との話が通じなかったし、勉強も先生の話も通じなかった。
そのため、ろう学校にいた時友人も多かったことを思い出し
「ろう学校へ帰りたい」
と思う一方、こんな所へ入れた親をますますうらむようになった。
そのため、ろう学校にいた時より「反抗」がますますエスカレートしていきました。
しかも同じクラスの難聴生や1つ先輩め難聴生は補聴器をかけていて普通の人と楽しそうに話をしたりして、私はますます人をうらやましく見るようになった。
そして誓った。
楽しかったろう学校生活からここへ変わったし、再びろう学校へ帰ることは出来ないだろう。
自殺しかない……と。 ( つづく )
Esperanza
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