教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
G君が居なくなってから、山城高校定時制の聴覚障害教育への一部からの批判は、エスカレートする一方だった。
「人の噂も75日」で消させようとしない中傷と誹謗
だが、なぜか、捺染工場で働いていたG君の姿が瞼から消えることはなかった。
刷毛を真っ直ぐ下げたり、染め具合を確かめながら次の工程に移る彼の姿が、あらゆる誹謗・中傷を耐えさせてくれた。
人の噂も75日。
と言われるが、どっこいそうはいかなかった。
彼が、居なくなって、1年経っても、2年経っても「聴覚障害生徒はなあ……」とG君だけのことなのに聴覚障害生徒全般のこととして話が影で広められた。
その都度、聞き合わせがあったが、その都度、事実でないことは訂正し説明し続けた。
G君は、どこに行ってしまったんだろう。
ハワイで波乗りをしている。
マリファナを吸っている。
ハワイの悪い連中とつきあっている、
という話しか彼の遊び友だちから伝わってくるだけだった。
日本で初めて見つかった
寝殿造りの遺跡
それから長い月日が経った。
G君が、突然学校にやってきた。
彼が居た頃と山城高校の建物は一変していた。
建物の建て替えによって聴覚指導室もつくられていたが、当時のE形の校舎ではなく、ロ形の建物になっていたからよけいに戸惑ったらしかった。
校舎建て替え時に、山城高校から寝殿造りの遺跡が日本で初めて見つかり建物構造が大幅に変更されていた。
寝殿造りは、絵として残っているが、その全容はまったく解っていなかったが、その遺跡がほぼ見つかったのである。
保存か、記録保存か、学校や教職員としては保存しか言いようがなかった。
そのため、当初計画されていた聴覚障害指導室は、当初計画と違って職員室から一番離れたところにつくられていた。
学校に戻らして
頼む
結婚することになった
校舎を駆け巡ってのであろう、必死の形相でG君がやってきて一番真っ先に思い続けていたことが、口と手話から真っ直ぐに飛び出してきた。
「先生。先生。もう一度山城高校定時制に戻れないか。」
「戻らして、頼む。」
「結婚することになった。先生、ぜひ来てくれ。」
そこには前のG君の姿はなかった。
何度も、ひたすら頼み込むG君をなだめて事情を聞くのに少なくない時間を費やした。
10代だったG君は30代になっていた。
Esperanza
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