教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
T子さんは、引っ越しのため東京のろう学校からD小学校に転学、難聴学級に入級。そしてN中学校の難聴学級から山城高校に入学してくる。
D小学校もN中学校も京都市内の固定式難聴学級で、学校生徒も少なかった。
そのT子さんが、いきなり1000名を超す生徒数の山城高校に入学したのだから、とまどうのは当然のことだったが……。
聞こえの権利保障に消極的であったが (2)
友だち関係について
健聴の友人
私が健聴の友人を本格的に持つ様になったのもこの山城高校に入ってからのことであり、それまではその機会が余り無かった。
やっぱりその手には慣れておらず、初めのうちは、ものすごく迷った。
まず自分の発音に慣れてもらうこと
相手の口の特徴を覚えることなど
積極的に出ればいい、という事は頭でちゃんとわかっているつもりでいたけれども、いざとなるとなかなか行動に移す事が出来なかった様な気もする。
やっと積極的に出来たかと思えば又、別の新たなる問題が待ちかまえていたという感じだった。
例えば、まず自分の発音に慣れてもらう事、相手の口の特徴を覚える事等、いつだってその問題は消えずに残っていた。
いつまでも、同じ人を相手にしゃべっているわけにも行かないし、その点についても同様に困っていた。
今から思うと、当り前ではあるが、クラブでの同級生が一番慣れていたなあとっくつく思う。
人数も少ない上に毎日3時間以上は一緒に活動していたのだから。
まして日曜日とか土曜日でも半日以上は一緒にいたのだし。
グループでの会話を本当に楽しむということは
私にとってはとても考えられぬことであったが……
私はボート部に入っていた。
部活動がおもしろいと思う頃にはもう学校生活を本当に心から楽しめる様にまでなっていた。
健聴生とグループで話すのに自信を持てる様になったのも、このボート部に入ってからのことだった。
普通、難聴の多くは向こうが慣れてくれない限り、グループで話すのを大の苦手とする。
私もその中の1人で、健聴生となら2人でゆっくりと話すに限ると思い込んでいたのである。
グループでの会話を難聴である私が心に本当に楽しむということは当時の私にとってはとても考えられぬ事であった。
しかし、ボート部ではそれを可能にした。
幸い女の先輩はおらず、男の先輩ばかりで、その分だけ気も楽でよくしゃべっていた。
惨めでつらい 作り笑い
ボート部に入るまでの私は、クラスメートとグループで話す時はいつも作り笑い、というものをしていた。
それはとても惨めで又つらいものであった。
何を話しているのか聞こうにも、グループの人が3人以上だと、話が変わるのも早く、もうついて行けない。
かつては、何話してんの?、と聞いてはその話に食らいつこうとしていた。
ある人に通訳などしてもらうのだが、通訳してもらってる間にグループの人は興ざめしたかの様にしらけ半分になっている。
ついさっきまで盛り上がっていた雰囲気がまるでウソの様に見えてくるから、よけいに私は気にするのである。
これは差別の問題ではなく、タイミングの問題だと私にはそう思えてたまらなかった。
グループの人も別に差別している様子にも全然見えず、ますます困ったものである。
タイミングをつかんだ人が一人でもいると
グループでの会話はスムーズ
ボート部に入ってからはっきりとわかった事なのだが、グループで会話する時は、聞く方のタイミングも大切なのだが、通訳してくれる方のタイミングも聞く方のタイミングに劣らず、それどころか、それ以上に重要なものなのである。
それらをつかむのにも沢山のコミュニケーション等を(2人の会話等)必要とし、又、時間的にも沢山必要とする。
それらをつかんだ人がグループの中に1人でもいれば話はスムーズに進むのである。
1年かかって、やっとわかりかけて来たという人ばかりであった。
クラスメートは部員とちがって、話すのは少しの休み時間しかない。
だから、やっと慣れたかと思えばもうクラス替え。
またはもう卒業という感じだった。
その度に私はゆううっな気分に覆われるのである。
私の力は、せいぜい1年でやっと慣れるようにしか出来ていないのかというふうに思いっっ、落ち込むのが常となった。
それに比べてボート部の同級生は半年後にはもうつかんでいたし、良かったなあと思っている。
どっちもどっちで、それなりに価値のあるものだ
健聴生の友人で、難聴生の友人よりもいいと思える点と言えば、やはり、学ぶべき事が多い事にある。
他に言葉使いとかも結構ためになる。
それに難聴生同士だと世間に対する視野というものがどうしても狭くなりがちである。
しかし、つき合っているのが健聴生だと、視野は必ず広くなり、色々と世間の厳し等そういったものを教えてくれるのである。
だから、どちらかの方が良くて、どちらかの方が悪いという事はない。
どっちもどっちで、それなりに価値のあるものだと私は思っています。
( つづく )
Esperanza
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