2011年10月24日月曜日

方法のみを求める教師を養成した自らの責任と教育学部窪島務氏の責任をなぜ自問しないのか


 多くの人は知らないが、窪島氏自身も教授会などの出席を点検されているではないか。
 「大学は来るべきもの。」

 「自主的研究は大きく縛られている。」
 「教授会で出席、欠席がとられる。」
 そのことを

「教授会は出るべきもの」
という常識に鋭く対立もしていないのである。
 何度も、何度も、繰り返す。
 窪島務も教師なのである。

 そのことを別立てにしているのは、大学の教授は教師でないというエリート意識である。

考えない生徒と批判し、方法論で教師を集める

 また窪島氏は、
 教育相談の過程で教師の心性としての壁を感じることはままある。

 教師が,多動(AD /HD) の子どもに対して,なぜ子どもが動き回り,トラブルを起こすのかを理解する前に,すなわち,子どもの状態をよく理解することよりもまず「どうしたらいいか」を知りたがるのはなぜか。
 学力は中位であるにもかかわらず,左右の方向や時間が分からず,友達と約束ができなかったり,鏡文字を書き,言葉や漢字を造語してしまうことで悩んでいる LD傾向のある子どもが高校生になるまで学校で一度として気づかれなかったのはなぜか。
 どうしてもアルファベットが書けない中学生が3年生の中頃まで一度もきちんとした教育相談を受けていないのはなぜだったのか(高機能自閉症かLDが疑われる)。
 いずれの場合も子どものニーズは決して軽微ではないのにもかかわらず,教師からの指摘はまったくなされていない。

とまたまた絶対的断定をする。
 窪島氏は、「教師からの指摘はまったくなされていない。」とする根拠はどこにあるのだろうか。
 このことをまず先に述べておく。
 もし、これらの問題があるとするならば、AD /HDの子どもの専門研究をしていると自負する窪島氏が、その原因を研究し、解明し、教師たちに提起するのが研究者としての努めではないのか。
  メソッドを徹底する前にすべきことがあるはずである。


数十年前からからの言う「発達障害」
   の子どもの相談を受けたことを頰被り

 彼は、数十年前からこのような子どものことの相談を受け、アメリカでは「微細脳損傷と呼ばれる子どもたちの状況と一致しているが……」だけでことを済ませていた自己責任をここで頬被りする。
 たしかに、近年の教師の中に生徒の行動の原因や教育方法を思考しない傾向は年々強まりつつある。だから教育実践センター(キッジカレッジ?)の教授の意見を拝聴するのだろう。
 教師自身が、原因と対策を考える能力を持っていたら教育実践センターが行う研修や校内研修に参加はしないだろう。
 窪島氏は、教育実践センターが行う研修や校内研修で教師の主体的判断能力の大切さを話しているのだろうか。

 それとも「教師からの指摘はまったくなされていない。」を取り上げ、教師の自己責任を問題にし、人権問題としているのだろうか。
 文章からは、後者であるとしか理解できない。

だが、そうではないようである。

窪島氏が批判する教師を彼も含めた教育学部が養成したはず

 先に述べた医療関係者や保護者や教師などに対する「使い分け」をしていることが、講演に参加した人々の話から伺える。
 窪島氏は、なぜ子どもが動き回り、トラブルを起こすのかを理解する前に、すなわち、子どもの状態をよく理解することよりもまず「どうしたらいいか」を知りたがる彼の県の教師の多くが、彼の所属している教育学部を卒業していることに触れようともしないでいる。
 彼が大学で、教え、養成した生徒が卒業して彼の大学がある県で教師になっている。

 その教師を批判すれば、自分自身の責任が問われることになる。
 でも、窪島氏の文章には、教育学部の教授として教員を養成した自己責任・自己反省は一切書かれていない。


 このこともまた摩訶不思議なことである。

 無責任極まりないとも言える。

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