2011年10月30日日曜日

数年で、主張を変質して文部科学省にすり寄った滋賀大学教育学部窪島務氏の新学校解体論


「教師=敵論」「親=原罪論」は問題解決にならないと
   主張していたが「変心」

さらに窪島氏は

そのように考えてくると教師が全面的にカウンセラーの役割をするなどということは本来的に無理なことと言えます。
役割(職業的専門性)が違うのです。
カウンセラーが決して教師になれないのと同じです。
(教師が自分の学校を離れ、職場である学校と全く関係なく、学校との関係が全くないクライエントと面談するときにはどうかということはわかりません。それでも難しいと思いますが。)  
誤解があるといけないので付け加えますと、学校にカウンセラーを導入することは有益であると考えています。 

但し、本当に有益になるためには二つの条件があります。


一つは、そうしたカウンセラーの特長を学校がよく理解するということ、

もう一つはカウンセラーが学校というもの、教師の仕事の全体をよく理解するということです。


今これが決定的に不十分であるため、むしろ新たな問題を引き起こし、学校からはカウンセラーなどない方が良いという声も出ているところが多いと聞いています。
ありうることだと思います。

学校のリストラ、教師減らしがすすめられて、と主張していたが

学校と教育を個性化するという名目によって、学校のリストラ、教師減らしがすすめられています。
いまや登校拒否児の進学保障の場となっている高等学校の定時制課程が強引に統廃合をすすめられている現実があります。
教育に市場原理が持ち込まれ、よい教育を買いたければたくさん金を出せという論理が大手を振っています。 
勉強ができないのも「個性」であるとあきらめさせられています。
問題が起きると親と子どもの責任にされたり直接かかわりのある学校や教師の責任にされがちです。 
無責任なジャーナリズムの姿勢も問題です。 
「教師=敵論」「親=原罪論」ではともに問題解決にはつながりません。 
教師自らが足もとを率直に見直すとともに、親と教師が協同して教育を変えていく運動を大きくすることが重要です。

※(比較するために)
滋賀大キッズカレッジのアセスメントでは、音韻意識にも蹟きが認められた。すなわち、ひらがなの読み、書きでも特殊音節で困難が起きる程度の重度の読み書き障害である。対人関係に問題のない学習障害である。
ところが、そうした保護者に対して、担任教師は「お母さん、気にしすぎです」という態度で保護者は相談のしょうがないと考え滋賀大キッズカレッジにたどり着いた。こうした事例が今年に入ってから相次いでいる。
 子どもの困難さと保護者の心配に対するこうした「否認ネグレクト」は決してまれな例ではないが虐待の一形態であるとするなら、子どもの困難と保護者の心配のネグレクトはまさに虐待というべきものであり、子どもの人権の蹂躙に他ならない。
(窪島務・久保田璨子 国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に-2010年 )

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