2011年10月25日火曜日

「読み書き困難」「読み書き障害」の指導に言語力の堪能は不必要?   


 さらに、窪島務氏は、は好んで「△□◇的」を使う。
 「教育的ニーズ」などもその例であるが、この「的」は、「教育におけるニーズ」なのか、「教育に関わるニーズ」なのか、「教育周辺の問題も含めたニーズ」なのか、「教育でないけど教育」なのか。極めて不正確な表現である。
 ようするに彼は、日本文として綴ることが出来ないで、子どもの読み書き問題を論じようとするところに原因があると考えわざるを得ない。
 また不思議なことに、彼と共同執筆したり、彼と歩調を共にする人々にはその傾向は極めて濃厚である。


「読み書きに堪能」であるか、と思えばそうでない

 「読み書き」を問題にするから「読み書きに堪能」であるか、と思えばそうでない。
 ボキャブラリー(vocabulary)が豊かでないと、「読み書き障害」「読み書き困難」の子どもたちの表現力や言語力を伸ばしてやるくことは出来ない、と思うのだが、彼はメソッ(method)に拘るのは、自己の特性の範疇から逸脱出来ないからかも知れない。


「読み書き困難」の子どもたちの表現力や
  言語力を「引き出」し、自信をつけることを考えない

 窪島氏は、「聴く」と「聞く」を言語で分解して、使い分るつもりであろうが、

教師が言語的に「聴く」ことから始まることは当然であるが,子どもとの関係における言語の過剰が問題となる。

という彼の文章を読むと、教師は子どもとの関係における言語が過剰であるため、言語的に「聴く」ことからはじまることを行っていないことが問題となる、としか読みようがないのである。
 このように書くのは、ボキャブラリー(vocabulary)が豊かであると、「読み書き障害」「読み書き困難」の子どもたちの表現力や言語力を「引き出」し「ダメだ」「間違っている」という呪縛から逃れて自己の内面を表現する読み書きの喜びを知ることが出来る。
 それが、教育でもあり、人間のコミニケーションであると考えるのだが、窪島氏は、「読み書き」の「国定読み書き」のマッチングを強調する。


 それは、彼らの力量の範囲で。

言語の定義を明らかにしてこそ 読み書き問題を論じられる

 言語とは、通常
「人間が音声または文字を用いて思想・感情・意志などを伝達したり、理解したりするために用いる記号体系。また、それを用いる行為。ことば。」
「ある特定の集団が用いる個別の言語体系。日本語・英語の類。」
を言うが、言語が過剰になるとは、
「人間が音声または文字を用いて思想・感情・意志などを伝達したり、理解したりするために用いる記号体系。」
が多すぎるということになる。


安易な「研究」で
言語問題と「読み書き障害」を述べられるだろうか

 窪島氏は、音声言語、文字言語という日本語本来のもつ表記を知らないでいるとしか考えようがない。
 そして、未整理な文章を書くことが、彼の専門的表現であるとしているならば、大きな誤りであろう。
 言語に対する規定や言語の意味合いについては、教育の分野では戦前から論じられてきた。
 すでに繰り返し述べてきた、日本語教育とするか国定語教育とするか、アイヌ語を認めるかみとめないか、共通語か標準語か、等々を無数の言語の論議と蓄積も含めて彼はそのことすらも触れて論じようとしない。
  だから子どもたちが「はなしことば」と「もじことば」の差異に戸惑い、混乱することについて一切論じられていない。


 
 それは、あたかも「読み書き障害」や「読み書き困難」な子どもたち以外には、読み書きの戸惑いや読み書きが出来ないことはない、という前提に立っている。

 しかし、これは大いなる誤りである。

 異質を強調するあまり、共通性を考えないのが窪島氏らの「研究」であり、そのほうが「調査方法は簡単」であるからとまで言えば、窪島氏は反論できるだろうか。

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