2011年10月22日土曜日

自己主張の正当性を外国語で粉飾して自己主張する滋賀大学教育学部窪島務氏


 窪島氏は、しばしば、ドイツ語・英語・カタカナ表記を文中に導入して、さも専門的な考え化のように粉飾するが、日本語として意味がしばしば通じないことが多い。
 また、日本語表現として存在しているものもあえてカタカナ表記する。


根拠のないもっとも困難であると決めつけ

 「教育とはもともと実践以外のなにものではないのであるから,教育が実践性を有するのは当然のことではな,いのか,という疑念が呈されよう。理論上はその通りなのである。」
「もともと,この題は学校教育に限定されるものではないが,ここでは臨床教育学が主として学校教育に関連して問題になっているということを考慮して焦点を学校教育におく。」
「またそれは, 臨床教育学の提起が、学校教育においてもっとも困難であると考えられることからもあえて学校教育をとりあげる。」
と書いている。
 彼は、「学校教育においてもっとも困難であると考えられること」をどのようなことだと考えているのだろうか。
 この彼の考えには、矛盾が多すぎる。


 「特別ニーズ教育」の主たる領域が通常学級であるにもかかわらず,通常の教育(学)においてまだ十分に注目されているとは言いがたいことである。この事情は,海外においても同様である。こうした構図の矛盾に視線を向けることが,今日の学校教育の実態と要請を捉えるために必要である。

曖昧で変幻する「新造語」で煌めく装い

 窪島氏は、「特別ニーズ教育」という用語をしばしば使うが、この用語は正確なのであるだろうか。なぜ、ニーズだけ日本語にしないのであろうか。
 ニーズ【needs】を単純に日本語訳しても「必要。要求。需要。」となる。
 では、特別要求される教育ということになるのであろうか。

 ところが彼は、

 ニーズ(needs,Bedarf)とは,藤野渉が指摘しているように,欠如・不足であり,それを埋め合わせようとする必然性を伴う欲求であり,要求である。
とか、

「特別ニーズ教育」の基本は,すべての個別的ニーズに通底するということはわれわれの最近の発見であった。

とか、

 「特別ニーズ教育」 の内容を構成するのは,(1) ニーズの特別さの認定, すなわち一般的な個性としてのユニークなニーズにとどまらない,特別な(special),特異的(specific)な学習上・発達上のニーズ,(2)ニーズの社会的文化的特性の認定,すなわち社会,文化,制度などの違いによる差異,(3)個々人の教育的ニーズへの関心,すなわち個別性,(4)インクルーシブ教育,すなわち学級集団を単位とする児童中心主義的教育課程,カリキュラム構造への挑戦,(5)障害を有する子どもの固有の教育課程や教育条件へのニーズの認定,すなわち特別教育(最近の文部科学省の新しい用語では「特別支援教育」),(6)教育的ニーズ以外のニーズの存在の想定,すなわち教育的ニーズと福祉的,医療的ニーズとの統一,たとえばスクール・ソウシャルワーカーなどである。

とか、のべて、「特別ニーズ教育」をしばしば、粉飾の用語として使っている。
 ようするに、彼は、自ら使う「特別ニーズ教育」用語の概念を整理できないでいるのである。
 これは、先に述べた「まず、第1に、欧米の研究状況を把握し、その到達レベルを吸収すること」といった諸外国に依存した概念を日本に持ち込もうとしている帰結でもある。
 模倣とも言えるこの「教育的ニーズ」なるものは、窪島氏だけではなく、彼と同調する研究者たちにも見受けられるから彼も安心して書いているのかも知れない。でも、そこには研究者としての信念はない。


「教育における特別なニーズ」
(Special Needs in Education)

 彼がしばしば使っている「特別ニーズ教育」という言葉は、1980年8月にイギリスの労働党が政権を奪取してから、検討され、公表された「ウォーノック委員会報告の答申」に由来していると考えられる。
  「教育における特別なニーズ」(Special Needs in Education)である。

 ところが、この言葉は日本の一部では、無制限に使われ、特殊教育から特別支援教育へという言葉で「新用語」「新教育用語」として使われているが、問題はその日本語の訳し方や、使い方である。
 もともとSpecial Needs in Educationは、 Educationのことばの語源であるラテン語(ギリシャ語)に密接に由来しているが。


 「教育における特別なニーズ」という言葉と「特別なニーズ教育」という言葉には、大きな差異が見られる。
 前者は、「教育の中にある特別な課題」と受け止められるだろう。
 ところが、後者は、「特別な課題がある教育」となる。

 すなわち、特別な課題を見出さなければならないということになるのである。ここに窪島務氏の主たる主張があるようである。

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