2011年10月27日木曜日

「インクルージョン」「インクルーシブ」は集団教育が基礎前提だが 窪島務氏はそれを否定


窪島氏は、欧米と書いているが例としている国は、イギリス、ドイツ、スウェーデンなどに一部にすぎないことを明らかにしてきた。
欧米には、さまざまな色合いの違うモザイクが組み合わされたように、さまざまな国々がある。
そればかりか、欧米は、アフリカ、アジア、ラテンアメリカなどなどの国と密接な関係が年々強まり、1つの国の出来事が瞬時に影響を及ぼすことも承知していない。
もちろん、日本もそうである。

Etre et Avoir(ぼくの好きな先生)

 ここで次のことを明らかにしておきたい。
フランスの山村にある小さな小学校に通う13人の子供たちとひとりの先生のドキュメンタリー映画がフランスで異例の大ヒットした。Etre et Avoir(ぼくの好きな先生)である。
その映画の内容を、ここで紹介するつもりがないが、映画では、3歳から11歳までの子供たちをひとりの先生が教える授業をリアルに観ることが出来る。

先生は、午前中は、4歳からの一番年少の子供たち。その間、上級生達は自習。先生は、小さな生徒たちに「ママ」のつづり方を教えていく……。
これは日本の過疎の小さな学校で行われている複式学級での取り組みと同じところがあるが、読み書きを教える時間がゆっくり流れて教えられているばかりか、異年齢集団同士の教え合う姿も映し出されている。
一斉と個別、同年齢と異年齢、そしてひとつの集団として学校がある。
(これらの学校はフランスに千以上ありその統廃合をめぐって各地で問題になっていることが、映画監督の手記に書いてあった。)

 この映画には、読み書き困難な子どもも出てくるが、その子ども枝の対応は、窪島氏の言う「読み書き困難な子どものメソッド」とはまったく違う。
教えるとは、学ぶとは、が人間性豊かな育ち合いの中で暖かみに包まれた小さな学校ですすめられていく。
またイタリアでも同様の小さな学校が多くあり、一斉と個別の授業が巧みに折り合わせながらすすめられている。

スロー教育とインクルーシブ

1980年代半ば、イタリアにマクドナルドが開店した。
このことが、ファストフードにイタリアの食文化が食いつぶされる、という危機感を生み、「スローフード」運動がはじまったとされる。
スローフードとは、その土地の伝統的な食文化や食材を見直す運動、または、その食品自体を指すことば、などとされているが同じような意味で「スロー教育」という考えが出されていることも窪島氏は承知していないのである。
与謝の海養護学校が「地域の学校」と言った意味と同じ考えが見直されているのである。

違いがあるけれどみんなamigo・amiga

 窪島氏は、窪島氏の意図と合致するイギリス系教育制度やドイツ教育制度のみを紹介・引用するが、彼の書いているような「インクルージョン」「インクルーシブ」などの教育が行われている国を探すことははなはだ困難である。
諸外国を引き合いに出すなら、なぜもっと多くの国々の教育を調べはしないのだろうか。

 アフリカの国々の多くは、「インクルージョン」「インクルーシブ」などの教育が行われていると言えば彼は否定するだろう。なぜなら、彼は「特異性」に拘るあまり、教育の基本を脇に置いているからである。
 違いがあるけれどamigo・amigaという概念は理解できないだろう。 
 それどころか、彼の読み書き障害とする子どもたちが在籍する普通学級での授業では、先生や専門スタッフが個別指導するのはもちろん、子ども同士の教え合い、学び合い、育ち合いを当然のこととして教育の基本に置いていないのである。
授業参観では、子どもたちの様子はわからない。
教える側に回って子どもたちを見ると一目で子どもたちの様子がわかるときがしばしばあることもしらないらしい。

「インクルージョン」「インクルーシブ」なる概念は、子ども集団・生徒集団・教師集団・教育に関わる専門家集団の基礎単位を前提に、教育を基本に相互分担・相互連携を前提にしていることは自明のことなのである。
それは、イギリス、ドイツ、スウェーデンなどの「専売」ではない。

外国の教育事情から、日本を考え得る方法は大学教師の「専売」でない時代になっている。

私たちは、窪島氏の例にあげる国々以外の国から学べることの方がはるかに多い。

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