2011年10月24日月曜日

ILO・ユネスコ教員の地位に関する勧告が理解できない滋賀大学教育学部窪島務氏


 参考に窪島氏がよく引用するユネスコも関わった文章の一部を掲載しておく。

ILO・ユネスコ教員の地位に関する勧告
(1966年9月21日-10月5日 ユネスコにおける特別政府間会議)


8 教員の権利と責任職業上の自由
61 教育職は専門職としての職務の遂行にあたって学問上の自由を享受すべきである。教員は生徒に最も適した教材および方法を判断するための格別に資格を認められたものであるから、承認された計画の枠内で、教育当局の援助を受けて教材の選択と採用、教科書の選択、教育方法の採用などについて不可欠な役割を与えられるべきである。
63 一切の視学、あるいは監督制度は、 教員がその職業上の任務を果たすのを励まし、援助するように計画されるものでなければならず、教員の自由、創造性、責任感をそこなうようなものであっては ならない。
67 生徒の利益となるような、教員と父母の密接な協力を促進するために、あらゆる可能な努力が払われなければならないが、しかし、教員は、本来教員の専門職上の責任である問題について、父母に よる不公正または不当な干渉から保護されなければならない。
70 すべての教員は、専門職としての地位が教員自身に大きくかかっていることを認識し、そのすべての専門職活動のなかで最高の水準を達成するよう努力しな ればならない。
85 教員は価値のある専門家であるから、教員の仕事は、教員の時間と労力が 浪費されないように組織され援助されな ければならない。


実践とはどういうことを具体的ドノヨウなことを言っているのか

 さて、教育学会誌『教育学研究第69巻第4号』(2002年12月季刊)で窪島務氏が発表されたものとして、「教育実践学の再構築と しての臨床教育学「特別ニーズ教育」の観点から」という文章についてすくなくない問題点を明らかにしてきた。
 しかし、それは、文章ののごく一部である。
 ここで彼の実践とはどういうことを具体的ドノヨウなことを言っているのかを検討し、彼の「主張」の背景にある問題を述べる。


「読み」「書き」は出来ても
それを連関する文章が書けないで「読み書き」を指導する危険

 窪島氏の論理がないので文章としたが、彼は、日本語の表現があまりにも分散的で一定の筋道とそれを裏付ける根拠が何ら明らかにされないまま、曖昧文と断定文をくり返しているのが特徴的としている。
 いいように言えばそうである。

 もっと本質に迫れば、文が書けないのである。
 「読み」「書き」は出来ても、それを連関する文章が書けないし、豊かな表現力も持ち合わせていないともいえる。
 それは、彼が子どもたちの様子を「描け」ていないか、「書いた」としても子どもの豊かで微細な表現をほとんど書かれていないことにも現れている。


読み手が読める文章を綴れない
 読み手のことを考えて自己の主張を書けない

 特に彼が断定的に書くのは、教師に対するクレームであってこれは極めて辛辣である。
 だが、彼も教師であると言うことを喪失しているため自体はさらに深刻な問題を抱え込んでいくは、すでに幾度も述べた。
 窪島氏は、読み手が読める文章を綴れないのである。読み手のことを考えて自己の主張を書けないのである。

 窪島氏は次のように「聞く」「話す」「書く」ことについて書いている。

 しかし,聴くとはどういうことかが深められなければならない。
 教育において,教師が言語的に「聴く」ことから始まることは当然であるが,子どもとの関係における言語の過剰が問題となる。
 いわゆる教師がしゃべりすぎるという問題,子どもの言葉の表面に直接的に反応するという問題がある。
 その背景に,子どもが分かってくれない,分かっていないという脅迫的不安が潜んでいるかもしれない。
 したがって,「聴く」ことの強調には意義があるが,子どもとの関係においては聴くことを含めて子どもの行動のさまざまな次元に注意を向けなければならない。時には心理的アセスメントを利用することも必要となる。
 教師の指示を聞けなかったり,数秒後には忘れている子どもや,文字や漢字がどうしても書けない子どもに短期記億に障害があり,3つの音節までは記憶できるが,それ以上は記億できず勘に頼って行動しているなどということがある。
 そういう子どもが内心でどれほどの不安と自信のなさに耐えているかということに想いが向かずに,逆に直感が優れている子どもという認識ですまされている場合などは決して少なくない。
 継次的な認知処理プロセスに困難があるため約束が守れなかったり,行動の手順がうまく理解できないなどということが起きることもある。こういう子どもが教師の指示を聞かず,約束を守らず,「自己チュウ」 であると非難され生徒指導の対象とされるというシーンは, 幾度となく観察され繰り返されている事象である。


 以上の文章は、非常に主観的意図に貫かれている。

 また文章としての態をなしていないとも言えよう。

 
 さらに言うなら、まさに彼にいる大学も含めて大学でこのようなことが問題になっていることを彼は明らかににしない。

 ナゼだろうか。

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