2011年10月22日土曜日

虐待・人権蹂躙と教師を「恫喝」「指弾」を乱発するが、評論できても自ら具体的実践が出来ない滋賀大学教育学部窪島務氏・久保田璨子氏の罪


 窪島務氏・久保田璨子氏は、次のようなことを書いている。

 滋賀大キッズカレッジのアセスメントでは、音韻意識にも蹟きが認められた。
 すなわち、ひらがなの読み、書きでも特殊音節で困難が起きる程度の重度の読み書き障害である。対人関係に問題のない学習障害である。


人権蹂躙の本質的な意味も理解せず
  教師が人権蹂躙していると「恫喝」

 ところが、そうした保護者に対して、担任教師は「お母さん、気にしすぎです」という態度で保護者は相談のしょうがないと考え滋賀大キッズカレッジにたどり着いた。
 こうした事例が今年に入ってから相次いでいる。
子どもの困難さと保護者の心配に対するこうした「否認ネグレクト」は決してまれな例ではないが虐待の一形態であるとするなら、子どもの困難と保護者の心配のネグレクトはまさに虐待というべきものであり、子どもの人権の蹂躙に他ならない。


(国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に- 医学評論 2010年7月)

 彼らは、担任する生徒が「重度の読み書き障害」があることを知らないでいることに対して、保護者の相談をネグレクトしたとして、ネグレクトは虐待であり、子どもの人権蹂躙であると充分な調査も聞き取りもなく決めつけている。
  「お母さん、気にしすぎです」
と担任が、どのような話のやりとりの中で言ったのか、どのような場面で言ったのか。
 それに対して、お母さんがどのように言ったのか。
 なによりも、子どもがどのように言い、どのように感じているの。


 人権蹂躙であるとするならば、担任とどのような連絡と話をしたのか、また担任にどのような教育実践上のアドバイスをしたのか等々がまったく書かれていない。

 すなわち、保護者との会話で担任の言った、「ひとこと」、を保護者から聞き、その「ひとこと」からは、虐待であり、人権蹂躙であると断定しているのである。
 ここでは、子どもの心情は無視され、問題の矛先を意図的に教師に向けているとしか言いようがない。

 また担任の意見も聞いた様子もない。断片的な話だけで、人権蹂躙とするのは科学を基本とする研究者の資質ばかりか、人としての最低限のなすべき事をしないでいるのではないか。

 決めつけられて報告され一方的に書かれた担任には、人権はないのだろうか。
 文章を読めばその県の教職員や親には、担任が誰か分かる。
 それへの配慮はここでもない。
 人権は、人間にひとしくあるということすら否定しているのではないか、とも思える書き方である。
 
 
 

 およそ、教育に携わっているとはとうてい思えない、偏見と予断に満ちた記述である。

 学校現場では、子どもたちと保護者、教師、担任などとしばしばある問題が起きてトラブルが起きている。

 そういう場合は、一体どういうことがあったのかを正確に把握しないで、お互いの言い分だけを聞いて、肯定していたらトラブルはますます拡大し、何が事の本質であったかが解らなくなることが多い。

養護教諭として健康教育の豊富な実践と
養護教諭から高く評価された人が書いたとは思えない、との声が

 久保田璨子氏は、養護教諭としてそれらの問題に取り組んで、教職員の一致と本質的理解のための努力で非常なストレスと困難を経験してきたことをかって数多く吐露してきたと聞いている。
 そのため、自身も人権侵害、人権蹂躙と追求された不当で哀しい経験を持っているとの報告がある。
 これらの経験と教訓は、どこに行ったのだろうか。

 養護教諭として自らの経験を踏まえるならば、人権蹂躙と決めつける前に保護者や子どもたちと教師たちが理解しあう関係が築ける方向を自らの豊かで真剣に行ってきた教育実践から提案できるはずである。
 その点では、窪島務氏が空論を凌駕するばかりか、彼が足下にも及ばないほどの教育実践の経験と教訓を持っている。
 

 またそういう取り組みをしてきた素晴らしい養護教諭であった、と同時期の養護教諭たちが、言っている。
 それらのことを思いだしたならば、以上のような記述にはならないだろう。
 久保田璨子氏の文章を読んだ養護教諭の中には、そんなことを書く久保田あや子先生では決してない、と言い続ける養護教諭にどのような説明をするのだろうか。。

  これは久保田あや子先生の何かの思い違いではないのか、という養護教諭もいるほどである。

 あらゆる困難を抱えた子どもたちを保健室を中心として健康教育をすすめてきた養護教諭として信頼され、みんなをまとめてきた養護教諭としての記述ではないと悩むほど養護教諭に信頼されていたのである。

人権蹂躙を教師に突きつけ支配し、従わせる手法

 教師は保護者と自由にものが言えないばかりか、保護者や子どもたちと自由に会話することで、自らの過ちに気がついたり、反省したり、学校内や専門機関に相談する余地さえ与えないことになる。

 教師を「もの言えない状況」にしておいて、読み書き障害の理解を追求するという姿勢が見受けられる。

 窪島氏らは、人権を守る旗手として浮き立てて置いて、その下に従わなければならないということまで言いたげな文章を、医療関係者などには知らせているのである。
 「個別的要請を通常学級(教師)に突きつける」ことをしていたり、考えていながら他方では、『個別的要請を通常学級(教師)に突きつけるという現状から, 「特別ニーズ教育」 として共通する基礎的な教育的配慮の内容・水準を明らかにする』などの考えを書いているのである。
 

 それが証拠に、「国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に- 医学評論」の文章は、窪島務氏と久保田璨子氏が新医協の学習会で「学習障害(読み書き障害)のアセスメントと指導」として発表したものであり、その学習会で発表したことの報告であったはずである。

 ところが、その報告は窪島務氏・久保田璨子氏は、

「学習障害(読み書き障害)のアセスメントと指導」

というテーマで講演しているにもかかららず、新医協の機関誌に

「国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に-」

というよう講演したかのように、まったく書き換えられているのである。

 これは、関係者以外がわからないはずであるが、新医協の学習会の案内と対比すればだれでも分かる。

このテーマの違いは大変大きい。

なぜこのように、講演したかのように書き替えたのかを窪島務氏・久保田璨子氏は、きちんと説明する必要があるだろう。

大学教授という以前のモラルの問題として

(参考資料)

窪島務氏、久保田璨子氏がかって多くのことの教えを受け、高い評価をされたはずだった青木先生の文などとの比較・変貌を紹介させていただきます。

 1992年京都府教委の嫌がらせにも屈しなかった与謝の海養護学校をつくり、校長になった青木先生は、京都府教育委員会の嫌がらせ、「実質的退職」に屈せず、中学校、小学校と転々と異動される中でも障害児教育教育と普通教育の原理・原則を貫かれました。その一部を抜粋します。
 ここには担任が悪い、人権蹂躙などという真逆のことが書かれています。 

 生活指導部長が、「殺人以外何でもあります。」と言うように毎日の様に問題事象がおこり生指部長も担任もその対応に追われていた。
 そんな状況をみる中で、学校づくりの第一歩は、教職員集団づくりである、と……。
 それは、教職員集団の集団的力量の質(発展)が、教育活動の質(発展)を規定すると考えたからである。
 与謝の海養護学校づくりの中で「学校は、憲法・教育基本法の理念に基づき、子どもの発達要求、父母の教育要求、地域の教育要求、教職員のしごとの要求、行政の要求(民主的)を統一的に実現する場である」と整理してきた。
 従って、そのような学校をつくる為にはどうしても自覚的民主的な教職員集団の形成は欠かせないのである。


 そして、その為の課題は民主的な教職員集団の形成の上で必要な組織の民主的整備と民主的運営と習熟である。即ち、全教職員が運営に主体的に参加し、教育活動はもとより各々の任務を果たし合い、個々の教職員の持ち味や創意を生かしつつ、全体としてのまとまりとしての集団的力量の発揮が出来る条件をどう創るかということである。


「クラスが荒れるのは担任が悪い」     「授業が成立しないのは教科担任が悪い」

と担任の責任とされる見方の中で悩み、元気を失っていた教師を学年として包み込み、学年団として  援助し合いながら取り組みを進める中で相互信頼関係を発展させ、学年教師集団のまとまりの発展によって「荒廃」克服への新たな実践が創り出され「荒廃」克服への展望がつくられたのである。

 どんな状況下にあっても基礎集団は破壊されてはならないし、基礎集団の発達が全教職員集団の発達を大きく支えるといえる。

1985年8月
 今、養護教諭にもとめられているもの
                           久保田璨子

 養護教諭の任務は、子どもたちの健康・発達保障をめざし健康教育をすすめていくことが主なものです。
 今、子どもたちの中に、何となくからだがおかしいという不定愁訴や発達上、心身症的問題などが大きく占めています。

 せっかく登校してきても、友達や家族・勉強の問題で悩み不安を抱えて教室に行けず保健室に直行、非行・性・いじめ・登校拒否・加えて生活のくずれから成長期の子どもたちに不健康と異常が深く進行してきているように感じます。
 時々、腹痛を訴えて保健室に来るK子、修学旅行から帰って後元気がありません。
 「みんな楽しそうやったけど、何か違う」。
 母親は離婚し内職で生活を支えています。周囲が黄色に見える程働いている姿を思うと「自分が楽しんでいていいのかな」と気持を沈まぜていることが分かってきました。
 家では努めて明るく振舞い、賃金が支払われず落胆する母親を励ますのですが、時には自分で支えきれず体の不調の原因にもなります。
 中学生は身近な問題を通して大人社会を見つめ始める時期、保健室ではからだの問題にふれながら
「がんばっているお母さんの一番の願いは、あなたがしっかり勉強をして自分の力で生きていく人に育って欲しいことだと思う」
と話をし、自立の課題をともに発見していきます。

 人間を人間らしく育てる、発達の視点に立つ健康教育を創造していくためには、子どもの現状を生活背景も含めてとらえ、子どもたちに将来への展望を示せる教育とは何かを追求し検討していくことが必要だと考えます。

 また健康問題は、養護教諭だけで解決できるものではなく、多くの学校で民主的保健(健康)組織づくりと運営がすすめられ、子どもの生活基盤である家庭や地域にも目を向け、教育やくらしの状況をふまえながら「生活づくり」にとりくむなど、解決の方向を見い出してきています。

 健康については様々のとらえ方がありますが、日々の生活の中で生きていく基本としてどう教えていくのか、どんな子どもに育てていくのか今一度、憲法や教育基本法にてらし合せ検討が必要です。
 養護教諭の仕事は、創造的分野が多く子どもの健康実態の複雑多様な中で質的転換が大きく求められています。
 課題として①学習を深め、②全校配置・複数配置・四年制養成機関増設・保健業務などの労働条件改善、③子どもの生活・健康保障の実現は、父母・地域・教職員の生活と健康を守り発展させていく運動と結合させ国民的課題として取り組んでいくことなどがあげられます。
                       


1987年11月
   養護教諭の切実な願いに応えているか?        久保田璨子


 教育委員会などが進めている研修は、おしきせで、強制的なものですが、それは結局養護教諭の教育実践への意欲につながらないことを示しています。

 教育委員会や官制研究会は、それなりの体裁を整え養護教諭の学びたい要求に応える内容になっているかに見えます。
 しかし、その実態は、養護教諭のねがう


「みんなで健康を考え一緒に健康教育を進めたい」
「子どもの瞳が輝くような健康教育を」
「子どもをしっかりみすえた健康教育を進めたい」

ということから大きくかけ離れたものとなっています。
 そして教育委員会は、保健事務処理の仕事を次から次へと増やし続け、子どもたちから私たち養護教諭を切り放そうとしているようです。
 健康を取りまく環境が、ますます悪くさせられているとき、このことは大変深刻です。
 臨教審は、健康教育を道徳教育として位置づけています。
 これは「健康教育を」

『~しましょう』
『~しなけれ ばなりません』

ものとして、一律に教えていくことにつながります。

 それは『しつけ主義的』な健康教育の方向であり、努力していく過程よりも、結果のみが重視されることになる危険を含んでいます。

 そして、健康とは『個人の責任で守るもの』ということが、いっそう強調され、「権利としての健康がますます遠ざけられていく」危険性を持っています。

 さらに、臨教審は、健康教育をスポーツ医・科学と結びついた体力づくりを重視、健康教育をしつけ主義的にして強靱な身体づくりをめざし、子どもたちを駆り立てていこうとするものです。

 これは、保健室にやって来る病弱な子ども、障害を持つ子ども、生活環境からくるさまざまな課題をかかえた子どもを切り捨てていく方向であり、絶対許すことはできないものです。
 これらのことの基本が現実には教育委員会の研修で進められているのです。
 だから、多くの養護教諭がこれらの研修に強い反発を抱くのは、当然のことです。

 昨年、京都府学校保健研究大会で府教委元指導主事のFさんは、黒板を前にして教えていないという理由で養護教諭の実践は「教育そのものでない」と述べ、養護教諭の仕事は「曖昧」でそのことに意味があると発言しています。

 このことは、養護教諭を教育の場から「除外」していこうとする反動的意図をもったものです。
 私たち養護教諭は教育行政の不当な措置により、ほとんどの職場では一人にさせられています。

 そのような中にあってもすべての教職員と手を結びゆたかな教育をすすめてきました。

 だから臨教審の動き、教育委員会の各種研修会などに負けることはありません。
 教育実践をすすめ、健康教育の理論を創造し、すべての養護教諭がさらに教育力量を高め、すべての子どもたちが健康になっていく。
 

 そのための自由で民主的な教育研究が、私たち養護教諭に保障されることこそが、今、必要なのです。

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