2011年10月31日月曜日

滋賀大学教育学部窪島務氏が 過去の主張や書いたことを「消し去り」、無批判に国の教育方針に同調する


そのため窪島氏は、島根大学教育学部の西氏の論述で、

しかしながら、「特別支援」ということばをかぶせることの合理性と科学性については、それなりに慎重な検討が不可欠と考えられる。
さらにまた障害児学級の廃止についても、実際に現に実践を進めているその担任が反対を唱える動きも、一部には見られたものの必ずしも全国的なうねりとなったわけでもない。
このように、いわばこれまでの障害児教育の蓄積を十分に吟味する暇もなく精算し、いとも簡単に政府の提起に従う傾向について、個人的には全体主義の復活を思わせるようなある種の恐怖心を感じている。

と、書かれている
「 いとも簡単に政府の提起に従う傾向について、個人的には全体主義の復活を思わせるようなある種の恐怖心を感じている。」
には窪島氏は、同意出来ないだろう。

ファシズム(全体主義)の中の教育統制と個人

 ちなみに、全体主義とは、「個」に対する「全体」(国家,民族,階級など)の優位を徹底的に追求しようとする思想・運動・体制をいいい、この言葉の起源は,イタリアのファシズムの最高指導者ムッソリーニが、運動の目標として1924年ころから掲げた「全体主義国家」の概念とされている。
また、全体主義という表現がファシズムに対する弾劾の言葉として初めて表現されたのは、1929年11月2日の「タイムズ・ロンドン」とされている。
窪島氏は、自分こそ「子どもたち個々のニーズ」を主張しているではないかというかもしれない。
しかし、その個々は国家統制の個々であるとなれば、子どもたち個々のニーズは「全体主義国家の枠の中」でのニーズになりかねないことになる。
窪島氏の文章には、学習指導要領における国語等の読み書き指導の非科学性や問題・改善・改変がしばしば書かれ、学習困難・読み書き障害を明らかにしつつ、学習困難・読み書き障害生徒のためのサポート方向とその教育効果と教訓がまったく記述されていない。
記述できないと考えるべきなのだろうか。

言語の基本的知識と研究なしに主張する窪島氏

 窪島氏の文章は、日本の文章として成立していないばかりか、立証もないまま、曖昧表現で「読み書き障害」や「読み書き困難」などなどの「言葉」を使っていることをしばしば指摘してきたが、それがあまりにも多すぎる。
例にあげるまでもなく、
「読み書き障害」・「読み書き困難」
という表現は異なった意味合いを持ってくる。
これらの事も踏まえず書き続けている。
大学教授として社会的責任が問われる
さらに、窪島氏の言う「読み」「書き」とはどのようなことを言うのかが疑問になる事も書いてきた。
彼は、読み書きの「正しい、正しくない、」「エラー」「錯」の判断基準を何ら明らかにしていないことを述べてきた。
  教育行政の後押しや学校管理職の要請に応じて、この不明確な考えの基に子どもたちの「読み・書き」を述べたことに対して、教育学部教授という立場から、過去・現在・未来への社会的責任をとらなければならないだろう。

野口法子氏・窪島務氏の基礎研究がないままの
  「研究」は、研究以前の問題をはらむ 

野口法子氏・窪島氏らは、「滋賀大学教育学部紀要 教育科学 No. 59 2009」「通常学級の子どもたちと読み書き困難児のカタカナ書字習得状況」( 野口法子・窪島務 )で次のようなことを書いている。

日本語の語彙は約230,000 語あり、ドイツ語(約185,000 語)やフランス語(約100,000 語)の語彙に比べてかなり多く、外来語が多いのがその理由である。
明治・大正・昭和で積極的に外来語を取り入れ、近年では、新聞・雑誌・テレビ・ラジオは言うでもなくあらゆるところでカタカナ語が氾濫している。子どもたちは、こういった環境の中で意識することなく、カタカナ語に接する機会を多く持つことになる。

基礎教養以前の常識が疑われる

まず、語彙数の引用がされているが、語彙の規定をしないとその数は大きく異なってくる。
このことを詳しく論じないが、日本語の語彙は約230,000 語とする説に対するまったく異なった諸説があることを調べたうえで、彼らの語彙数に述べられていない点をあげておく。
日本語の語彙の語彙をどう考えるかで、語彙数が大幅に変わるからである。
研究する場合は、基礎研究をした上で、自分たちの評価を研究をすすめないと研究として成り立たないという「研究の常識的前提」が欠如しているのは明確だろう。
このことは、引用文献が少なすぎると言っているのではない。
言語は、容易に全容を把握できないほど歴史的に変容してきているから、より慎重で深い基礎研究が必要になるからである。

基礎研究を充分しないで「論じている」こと。
この段階からすでにその内容は、恣意的な解釈となり、「カタカナ書字習得」というテーマが成立しなくなる。
日本語は、ドイツ語やフランス語の語彙に比べて外来語が多い、と断定している事についても文章の常識的教養が疑われる。

野口法子氏・窪島務氏は日本単一民族説を肯定

ドイツ語もフランス語もヨーロッパ大陸の中ではぐくまれてきたものであり、様々な民族の言語と交流されて形成されたことは、常識である。
言語は、他民族の言語と混合・合成・融合されて成立するものであり、他民族の言語の影響を受けず、一民族が一言語だけを形成してきた歴史はない。
教育者としては、むしろ、日本で意識的に単一民族説を唱えて、少数民族であるアイヌ民族や他民族を排除してきた歴史を想起しておかなければならない。

最初から自滅している「研究」

ドイツ語の「外来語」。フランス語の「外来語」。
このような概念は、成立しない。
もしも窪島氏らが言う、現在の「ドイツ国内」で使われているドイツ語の外来語というならば、スイスの共通語やオーストリアで使われているドイツ語は、どうなるのであろうか。
ドイツで問題になっている少数民族の言語の排除をどう考えているのであろうか。
カタカナ問題を書くために、民族や国が絶えず入れ替わり、言語が交差したヨーロッパなどの地域と語彙を比較すること自体無意味なことである。
  だが、書いている。

そのため野口法子氏・窪島務氏の「通常学級の子どもたちと読み書き困難児のカタカナ書字習得状況」というテーマそのものは最初から自滅しているのである。

そして、文章は、参考文献にあげている書物が充分読めていないか、自分たちの結論を導き出すために「不都合な部分」を意図的に排除しているとしか思えない。

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