2011年10月22日土曜日

教師むけの機関誌には「教師だけでは十分な対応をすることができません」と書く滋賀大学教育学部窪島務氏


教師だけでは十分な対応をすることができません
教育相談、医療など学校外の専門機関との連携を
    と書きながら

 窪島氏は教師などが読む季刊「ひろば・京都の教育」第130号(2002年5月)で、

 この場合の「特別なニーズ」は、一人ひとりの個別的ニーズと言い換えてもいいでしょう。
 問題の核心は、子どもたちがそこからくるさまざまな困難から、学習や友だち関係などで深刻に苦しみ悩んでいる、ということです。
 子どもはわからない、伝わらない、思っているようにできない、わかってもらえない、ということをさけるため、はしゃいだり、ちゃかしたり、暴れたり、学校に行くことをいやがる、という行動をとることがあります。
 その表面的な現れにとらわれることなく、行動に込められた子どもの悩みや苦しみ、発達要求を読みとってあげなければなりません。ここをしっかりとらえることが重要です。
 しかしまた、この問題は教師だけでは十分な対応をすることができません。
 教育相談、医療など学校外の専門機関との連携をしっかり作っていくことが大切です。

と「問題は教師だけでは十分な対応をすることができません。」と書き、「教育相談、医療など学校外の専門機関との連携をしっかり作っていくことが大切」としているのである。
 医療関係者などと教師たちに対する主張の大きな落差は、彼が研究者の信念に基づく考えを説明していないことはこの対比だけを見ても明らかであろう。

一方親と、学校と教師を対立させる行動

 季刊「ひろば・京都の教育」第130号(2002年5月)で書いていることから考えるならば、滋賀大キッズカレッジにやって来た保護者に対して、担任教師は「お母さん、気にしすぎです」という態度から、担任をなじらず、教育相談、医療など学校外の専門機関との連携をしっかり作っていくこととして書けるはずである。
 だが、そうではない。
 ここに彼が、学校や教師と保護者を必要以上に対立させようとする扇動があるのではないかと考えざるを得ない。


日本の教育の実情と集団形成の無理解を自ら告白

 さらに彼は、
 第1に, 日本の通常の学級は,一般に意識されているように,等質集団あるいは同質集団で組織されているのではない,ということである。特別な教育的ニーズという視点から見たとき、端的に日本の学級は異質集団から成り立っているという認識から出発しなければならない。
 日本の学級が異質集団であることの概略は国際的な統計の比較としても示される。

と書いているが、それは彼自身が「意識」していることであって、「一般」化するところにすり替えがある。

 等質集団・同質集団とは、具体的にどのようなことを言うのかを彼はまったく具体的に示してはいない。
 いや、示されないというほうが正確だろう。
 さらに窪島氏は、教育における「質」とはなにかを一切定義づけない。
 もしも、日本の学級が同レベルやそれに近い学力集団として、一般的に「意識」されているとするならば、窪島氏の日本の普通学級に対する見識があまりにも欠如していることにもなる。
 学級集団が一定の学力水準を維持できていないことに対して教育実践上の研鑽を重ねてきた教職員たちに対する「侮蔑」としかとれない。
 普通学級に対する常識的知識を持ち合わせていない窪島氏は、それを日本の実状で分析するのではなく外国の資料を取り込むことで自らの非常識ぶりを粉飾する。

諸外国ではこうなんだ、とするが、どこの国?

  彼は、国際比較を再び持ち出す。
 障害児教育 (special educaton)と書き、special educatonを障害児教育としている。 なぜあえてspecial educatonと書きながら特殊教育と訳すことなく、わざわざ障害児教育とするのか。 ここでも窪島氏の無数の粉飾が折り込まれている。
 そして、読み手に対して、諸外国ではこうなんだ、と言わんばかりの手法を取りい入れる。

 ここにもまた彼の不安定で不確実な主張が見てとれる。
 アメリカで障害児教育 (special educaton) を受けている子どもは学齢児の約10%, ドイツで障害児学校の教育を受けている子どもは約4%,オーストラリアで障害児学校の教育を受けている子どもは約 1%,イギリスで特別の教育的ニーズを有するとされる子どもは20%,ユネスコは同 10%などであるのに対して,わが国では障害児学校の教育を受けている子どもの比率は2001年度において0.44%,障害児学級の教育を受けている子どもが0.68%,合計で1.12%である。
 このような文章を窪島氏は至る処で書くが、アメリカの概念、ドイツの概念、イギリスの概念、ユネスコの概念がそれぞれ異なっているのに数値的比較だけで、述べようとする強引さがある。
 そしてその比較の対象として、日本の例は障害児学校と障害児学級の数値だけをあげる。

 この彼の非実践性に、彼の今までの障害児教育研究なるものの非科学性がある。
 あえてここで書いておこう。

 彼は、文部科学省の資料などを論拠にするが、その資料の基礎となる学校では、すでに教育委員会や文部科学省に意図に沿うように統計が改ざんさせられていることすら知らないようである。
 少なくとも、統計資料に関わった教師たちに聞けば、基礎資料の記入の問題や上からの「指示」に翻弄されていることはわかるはずである。
 窪島氏は、学校教師の本音を聞きもしていないこともこのことからも分かる。


国際的国内的議論を見わけ検討するべきと言っていたのに…

 かって窪島氏は、
 一部マスコミも含めて、障害児にたいする特別の教育制度や方法を整備し、提供することを否定し、すべての障害児をまったく健常児と同じく、普通学校の普通学級に在籍させることこそが国際的な前進方向であり、わが国における養護学校教育の義務制施行や障害児の発達や健康状態や障害の様態にふさわしい教育の場と必要な条件を保障しようとする努力のすべてを国際的動向に反するものであるかのように描き出そうとする意図があるなかで、国際的動向を視野に入れながら教育的統合の意義を明らかにすることは重要なことであると思われる。
 また統合問題に関する国際的国内的議論を見わけ検討する場合の重要な視点として、社会的統合と教育的統合(教育における統合)という二つの統合を区別しかつ相互の連関において総合的にとらえることが重要であることを提起する。
 この論点は障害児教育にかぎらず、一般に子どもにたいする社会の人格形成作にたいして、教育、とくに学校教育の固有の役割を明らかにすることや両者の関係の問題と同じ領域のものであり、教育学的認識の基本をなすものの一つである。
 ところが、この点が一部の人びとの場合、障害児教育における統合問題の中であいまいにされることがじつに多いのである。

(障害児教育妨害者の「理論」批判 完全参加を目指す教育 全障研出版 1983年8月1日)
としていたが、


 このような考えはどうなって、どこに行ったのであろうか。

 

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