2011年10月26日水曜日

「ぼく、字が書けないだけど、さぼってなんかいない」 という本を出版したが 子どもたちは、字を書いているのに 書けないと決めつける偏見と無理解


マス目に書けない子どもたちの真の原因と教育実践の教訓

日本での漢字表現と漢字の読みは、多くの変遷をたどってきたが、正方形の枠内に漢字を書くことを強要されてきたのは近代になってからであり、国によって強制的に変えられ、強要されてきた。
マス目に書けない障害を持った子どもたちが、揶揄された教育を改革してきた日本の教育を障害児教育学専門であった窪島氏が、知らなかったですまされない重大な問題がある。
彼は、脳と身体能力の問題について書いているが、それらが密接不可分であることを知らなかったとでも言うのだろうか。

子どもが必死に書いているのに心の中で
「書けていないと決めつけている」心情が吐露

窪島氏には、「読み書き」の歴史を踏まえて、子どもたちに自由な自己表現手段としての読み書きを獲得させるという教育目的はなく、学校教育で、学習指導要領で定められている「読み書き」を基準にそれに適応できているかどうか、で「正しい字」「間違った字」と決めつけている。

「ぼく、字が書けないだけど、さぼってなんかいない」
を出版し、読み書き障害の子どもは
「字が書けない」と断定し、さぼってなんかいない、とする厚顔さ

「正しい」「正しくない」「書字エラー」「錯読・錯書」とする根拠は不鮮明と書いたが、このことは窪島氏の本質を現していない。
根拠は別のところにある。

なぜそこまで、書くのか。
なぜそこまで書かざるを得ないのか。

は、次のことが明らかになったからである。

子どもの言葉を借りて本音を現す

2010年2月に
NPO法人滋賀大キッズカレッジ手記編集委員会編 編集代表として、窪島務は、
「 ぼく、字が書けないだけど、さぼってなんかいない」
(文理閣)を出した。
この本を、
「読み書き障害のことをもっと知ってほしい」
「わたしの思いを聞いてほしい」
これまで注目されることが少なかった「読み書き障害」について、その特徴や学校での対応を保護者と子どもたちが本音で綴りました。
と紹介している。
だがこの本のタイトルは、すでに述べてきた読み書き障害の「書字エラー」「錯読・錯書」などとまったく異なった表題となっている。

字が書けない、と決めつける心情

すなわち、子どもたちは「書字エラー」「錯読・錯書」でもなく「字が書けない」としていることにある。
しかも、子どもたちが言っているかのような表題にして、
「ぼく」
「さぼってなんかいない」
としている。
子どもたちは、
「字が書けない」
と言っているのだろうか。
例えそう思っていても、それはそうではないのだ、と子どもたちに知らせることが必要だと言うのが窪島氏らの主張ではないのか。

子どもたちの言葉として、窪島氏らが
「字が書けない」
としている部分を誇張しているのではないか。
切実な思いで書いている親たちの思いを窪島氏らは、
「書けない」
ということで括ってしまっているのである。

ここには、子どもたちが字を書いているが、それを「エラー」(誤り?過失?)「錯読・錯書」(まじるった読み・書き?入れ混じった読み書き?・乱れた読み書き?」と表記していたことはまったく現されていない。
字が書けない。
と窪島氏らが、断定し、認識していることを
「教師が解ってくれない。」
「傷つけらた」
「人権を認めていない。」
などの気持ちを表面に出していながら心底考えているのは、
字が書けていないのではなく、字が書けない。
と言う断定的固定概念があることが浮き彫りにしているのである。

子どもや親の気持ちを代弁するようで自分たちの本音を本の表題にするひどさ

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