2011年10月26日水曜日

「decent work」も「The right to decent work of persons with disabilities」も理解できない


思い込みの仮説から来る結論の必然

 断定の思い込みからの仮説は、その仮説に拘束され、その仮説に基づく実験・調査結果しか認識できなくなるという非科学性の「論文」なる文章を多々連発している窪島氏は、科学調査を投げ打ったと考えられる。
 仮説の前提が、およそ教育学、障害児教育学の専攻とは考えられないものである。
 そればかりか、戦前のカタカナ文字の習得困難だった生徒を完全に無視した論立ては、読み書き困難児を論じる前提が崩壊している。


科学を装う非科学研究

 さらに、戦後の初等教育では、ひらがなはもちろんカタカナの習得困難な生徒に対する教育実践も多々ある。
 これらのことなどをまったく調べもせずに、「読み書き困難児のカタカナに関する先行研究がほとんどない」として、あたかも自分たちが、「読み書き困難児のカタカナに関する」研究の先覚者であるかのように描き出す姿勢もまた研究者以前の人間としてのモラルが疑われる。
 科学研究の装いを凝らした非科学研究としても、彼らのカタカナ調査に協力させられた小学校の生徒たちはあまりにも気の毒である。


子どもの協同関係や子どもたちの教育力や
 集団としての学び合いを全否定

3、彼は、子どもたちとか、子ども集団とか、のことにまったく書いていないところに特徴がある。
 これは、彼が、子どもひとりを個別の存在とみて、子どもたちの相互の教育力を見ていないということの現れでもあると言える。
 子どもたちは、生徒であると共にお互いがお互いを教え合い、相互に教育力を高めていく力を有している。
 そして、時には、その力は教える側を凌駕していく。


子ども集団・教師集団 そして学校否定の主張

 学校という基礎単位は、子どもひとりひとりの存在の場であるだけでなく子どもたちの集団形成の場でもあることを窪島氏は何ら触れようともしないのである。
 彼は、子どもたちが教え合い、学び合う、子どもたち自身の教育力を知らないのである。
 同時にその子どもたちに信頼を寄せていないとも言える。
 それは、「滋賀大キッズカレッジ学習室」のボランティア募集にも現れている。


「読み書き障害(学習障害)のある子どもの学習室」は、「学習室への参加希望は多数有りますが、一対一の指導を基本にしているため、多くの子どもたちに待機していただいている状況です。」
としているが、
「読み書き障害のある子どもたち同士の子どもたち自身が教え合う場」
も考慮に入れるという構想はまったく見られない。

どこにいったの
異質集団をあるべき学級として理念化したものが
インクルージョン教育,インクルーシブ学級

 窪島氏は、
「特別な教育的ニーズを有する多くの子どもが通常学級にいるということである。この異質集団をあるべき学級として理念化したものが,インクルージョン教育,インクルーシブ学級である。」

と書いていることはすでに述べてきた。
 彼は異質集団という異質の規定がないと言うことも指摘したが、
「異質集団をあるべき学級として理念化したものが,インクルージョン教育,インクルーシブ学級である。」
であるとするならば、インクルージョン教育、インクルーシブ学級の典型やパイロット教育を「滋賀大キッズカレッジ学習室」で実践しなければならないはずである。
 だがしかし、「一対一の指導を基本」の実践をするというのである。
 これでは、窪島氏の書いていることは「空理空論」でしかないことを、自ら証左したにすぎないのである。

 彼は、
「そのことが直接に一斉授業の否定につながるものではない。一斉授業が悪であるという評価が一斉授業=画一的であるという誤った観念の上に形成されている疑いがある。」と書いていることも紹介してきたが、彼は、「一斉授業」の中での、読み書き障害の子どもの授業を肯定していないのである。
 行為がすべて物語るということは、まさに窪島氏のためにあるのかもしれない。


滋賀大学教育学部教育実践総合センターは
 教師の実践の悩みを受けとめないのか

 滋賀大学教育実践総合センターの目的として、かって京都新聞の記事にされていたことを紹介した。
滋賀大教育学部は付属の教育実践総合センターが、「ティーチャーズ・オープンキャンパス」構想も掲げ、その第一弾として相談窓口を始めることにした。
 相談窓口の担当で教育実践総合センター長の窪島務教授(教育学)は
「今の教員は研修や会議が多く、忙しい。悩みを抱え込む前に気軽に相談してほしい」
と話している。
 窪島氏の「今の教員は研修や会議が多く、忙しい。悩みを抱え込む前に気軽に相談してほしい」と話していたとされる姿は彼の文章からも今は見られない。

 そればかりか、教師を指弾し、苦境に追い込むのはなぜだろうか。
 教職員の労働安全衛生から考えてみると、彼の教師の労働に対する認識の偏向がコメントでも解る。

ILOの「decent work」「The right to decent work of persons with disabilities」を解釈できるだろうか

 「研修や会議が多く、忙しい。」「悩みを抱え込む」と言うならば、研究者会議を少なくして、教育実践・教育内容の創造に打ち込めるようにすることを提案するのも教育実践総合センターの役割ではなかったのではないか。
 また、悩みを抱え込む、のではなく、悩みから解放する方途を示すのが、教育実践総合センターとなったはずである。
 ところが現実は、彼は教育委員会や各種官製研修・大学の「出前事業」なるものに積極的に参加し、教師の悩みを上塗りすることを講演している。
 この真逆の動きも、窪島氏の方向をも証左している。


 これでは、彼の好んで使う国際動向のひとつであるILOの「decent work」も「The right to decent work of persons with disabilities」も理解できないだろう。

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