2011年10月24日月曜日

教師は、教育をするだけでは不足 自ら主催し、賛美する特定の知能検査方法を身につけよ、と迫り 利益と収入を得る滋賀大学教育学部窪島務氏


窪島務氏は、カタカナと専門用語を
 部分的に織り込むが日本文として成立しない

 彼や彼の周辺の人々は、「アセスメント」というカタカナを好んで用いる。
 英語におけるassessmentは、通常「評価」「物事・性質・能力などの良し悪しや美醜などを調べて価値を定めること。」と訳されるが、 あえて、アセスメントを「教育の場面における成果の判断」と窪島氏の意図に沿った日本語訳にしてみると、「心理的アセスメント」は、「心理的な教育の成果の判断」となる。
 従って、「時には心理的アセスメントを利用することも必要となる。」は、「時には心理的な教育の成果の判断を使用することも必要となる。」と言う日本文になるが、この文章だけを見ても意味が通じないことになる。

 ここで窪島氏は、「教育心理」という言葉を使わないのだろうかと訝しくなる。
 彼は、教育心理ではない言いたいのかもしれないが、彼の述べていることは教育心理学の範疇にある。

知能検査による評価が必要と主張し「絶対化の方向」に傾注

 窪島氏の本心は別なところにある。
 「心理的アセスメントを利用する」とことを他の彼の文章で調べて、窪島氏らの実行していることを調べると彼の主張は次のようになる。


 教師は、知能検査をする方法を身につけるか、利用せよ。
 そこから得たデータを基に子どもにアプローチせよ。


と言いたいのである。
 しかし、このようなことを教育学の紙面で書くと、戦後教育で頻繁に導入され、知能検査によるIQの数値で子供たちがランキングされたりIQで教育対象外とされた教育の問題から知能検査に対する数多くの批判が出され、知能検査が初等教育から導入されたことを窪島氏知っているのだろう。
 彼は、ハッキリとは書かないが知能検査で子どもを判別していることは間違いのない事実である。


 戦後、障害児はIQで「白痴」「魯鈍」などなど「断定され」教育対象外にされてきたこと。
 そういうことを批判して発達保障や発達診断が形成されてきたこと。
 また、窪島氏は、そのことに同調し、積極的に参加・主張してきたこと。
 

 彼は、なぜかそのことについて触れない。
 そして、ナゼか、IQの「再来」を強力にすすめている。
 彼のそれまでの研究を知る人々は、その変貌ぶりに驚いている。

 彼はかっての知能検査批判を克服したIQを提示していると言いたいのだろうか。
 それでも現在の窪島氏の主張を理解することは出来ない。
 窪島氏は、そのような「空気」を読んで、知能検査とは書かないで心理的と曖昧に書いている。

 くり返すが、昔の知能検査とは格段の相違があると彼は考えているかもしれない。
 しかし、知能検査は知能検査である。
 検査で知能を推し測ろうとしていることは彼の他の文章で頻繁に書かれている。

 

 窪島氏らは自ら主催して、自ら賛美する知能検査の講習をしていることは隠しようのない事実なのである。そして、それが彼らのNPO法人なるものの費用に充てられている。
 このことを考えると、知能検査を奨励し、特定の検査方法を教職員を知能検査講習に高額な費用であつめ、自己流の分析を教育に導入し、NPO法人なるものの安定的収益を計る、という隠された財政確保問題がある。それを覆い隠すため非営利団体NPO法人と「非営利」を強調しているが、本当に非営利なら無料か、会場費程度の講習料金にすべきだろう。
 さらに、知能検査にはさまざまあり、その効果の是非悪しも教えてこそ科学と言えるが、そうでもない、
 
 
 
 
 

 彼の知能と書く部分は、彼ら流の知能検査による、と解釈しなければならないのである。
 ここでは、すでに主観主義で、排他的な実践が垣間見る事が出来る。

 窪島氏の方法は、あらゆる点で自己破綻は明らかであるし、それを繕っているが、一番の犠牲者は、彼らを信じた子どもたち、親・家族、教職員である事は絶対防がなければならない。
 
 

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