2011年10月22日土曜日

滋賀大学教育学部窪島務氏のへのプロローグ   滋賀大学教育学部窪島務氏の「LD・読み書き障害の発達的理解・アセスメント及び指導法の探求」への疑問


 滋賀大学教育学部窪島務氏は、ホームページで、「LD・読み書き障害の発達的理解・アセスメント及び指導法の探求」として、以下の文章を書いている。

日本の教育から考えるのではなく
 欧米?の教育を導入する基本的発想

 まず、第1に、欧米の研究状況を把握し、その到達レベルを吸収すること、
第2に、欧米の研究の欠陥というか軽視されていることを重視していくこと、特に、欧米の研究では読み研究に比べて書きの研究が甚だしく軽視されていることを批判的に検討していくこと、
第3に、したがって、日本語に特に重要な、漢字と「書き」を重視して独自の研究を行う必要性を自覚してきました。


欧米の異文化を日本との同一レベルで比較する

 だが、窪島氏は、欧米ではなぜ読み研究がなされているのか、を明らかにしない。
 そして、欧米とは異質な言語である日本語の「漢字と書き」を重視して独自の研究を行う必要性を強調している。
 ここには、すでに研究する前提の「欠陥」が現れている。


「読めている」とする根拠は何もない

 まず第一に、窪島氏は欧米と書いているが、欧米とはヨーロッパとアメリカをまとめて表現しているのだが、窪島氏の書いている文章を読むとドイツ連邦の一部の州・アメリカの一部の論文の引用がほとんどであり、それでもって欧米とすること自体非常な無理がある。だが、このことが彼の本質を現していることが徐々に解る。
 例えば、ヨーロッパの教育システムは、各国さまざまであり、話すことと読みから文字への移行教育がかなり深く検討されている。
 逆に日本の初等教育のように、話すことと読みに時間をかけることなく、入学時からひらがなが書けることを前提に教育がされている国は少ない。
 このことの問題を彼は一切触れようとしない。
 文中しばしば登場するが、かれの「読みが出来るが」という「読み」は、「よめる」「音声を出して読める」がどうか一切書かれていない。
 そのためしばしば、読み手に「読めている」が「書けない」ことが問題があるのだなぁ、という印象を与えているが、それはそうかどうか、はまったく解らないのである。
 彼には、「読める」としている子どもの科学的調査・研究はほとんど見当たらないからである。


漢字の読みは、変幻自在に存在することを無視

 子どもたちが、「書きに」不適応があるから、窪島氏は、「欧米とは異質な日本語で特に重要な漢字と書きを重視して独自の研究」をしなければならないとしている。
 言語としての日本語を考える場合、初等教育からいきなり話し言葉と異なった漢字と漢字の読みが導入されている日本の教育に対する何らの疑問も書かれていない。
 日本の漢字の読みは出来ているとするが、少なくない人々が日本の漢字の読みの多様さに戸惑いを覚えることはしばしばある。
 「止まれ!」「通行止め」などの例をあげるまでもなく、比較的簡単な漢字でも、漢字の配置によっても、習慣によっても「読み」は多様に異なる。その多様性を彼は無視して、彼の論拠をすすめる。


沈黙する「国家統制」の「国語」

 さらに、窪島氏は、日本語の表記としての漢字が、多くの反対を押し切って、国家によって統制され、しばしば変更・追記されたり、読み書きが換えられたり、制限・強要されてきたことを是認して研究をすすめている。
 また、マスコミなどの「自主規制」の名目による漢字表記の「統制」などなど、今日の日本の社会状況との関連で「読み書き」を述べるようなことを一切しない。
 それらを覆い隠しながら、「読み」「書き」を述べるが故に多くの危険因子をばらまいているとしか捉えようがない。
 「読み」「書き」という言語は、社会関係と連関してきたことを見ないが故に、窪島氏の発想そのものがすでに成立しないことは明らかである。


  窪島氏の主張は、このことからすでに敗北した主張であるが、彼が固持し続けているため、あえてそのん問題点を具体的に明らかにせざるを得ない。


 

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