2011年10月24日月曜日

わが国においては障害児教育諸学校や学級の人的・物的教育条件はきわめて不十分である、と主張していた滋賀大学教育学部窪島務氏はどこに行ったのか


 窪島氏さらに次のような引用をした

 ノルウェーでも次のように言われている。
「しかしながら、児童が普通学級やスペシャルグループで教育されているかあるいは特殊学級で教育されているかということはインテグレーションの決定的な基準と見なされない。
 インテグレーションは同じ学校ですべての児童を教育させるということでの同一性を必ずしも意味するものでもない。
 インテグレーションの実現にふれて、委員会は、次のように述べた。第一義的関心は児童が彼らの要求にふさわしい教育を得ているかどうか、かつ彼らが積極的で活発な社会的文脈で受容され、参加が認められ、快適さを感じることができるかどうかということである」(ノルウェーの義務教育における障害児の統合 1982年)。


27年余前の主張と
最近の主張のあまりにも大きな落差はどこから…

さらに窪島氏は、別の項目で、

 近年、障害児といわれない子どもたちの中にも特別の教育的配慮を必要とする子どもが増加している。
 障害をもつ子どもはより多くの「特別な教育的二ーズ」をもっている。
 障害と発達あるいは地域的特殊性などからその「二ーズ」の内容はきわめて多様であるし、また障害児教育にかぎられない一般的教育要求につながるものも少なくない。
 たとえば、小・中学校の一学級児童・生徒数の標準を減少させることなどはそういう類いのものである。
 イギリスにおいては現状において普通初等学校で1学級30人前後であり、かつ補助教員をおいているところもあるが、教員組合は障害児を普通学級に受け入れるにあたってさらに教育諸条件の充実を強く求めている。
 ノルウェーでは初等教育では、1学校が120~250人規模、1学級20~23人が普通とされている。


専門職とは何かということを前述の諸点とのかかわりで
明らかにすることこそが重要とした
窪島氏の専門性は変遷の一途をたどる

 わが国においては障害児教育諸学校や学級の人的・物的教育条件はきわめて不十分である。
 障害児の教育は障害や健康へのとりくみと不可分である。
 障害と健康上の問題に適切にこたえることができるように、学校の中で医療的、福祉的機能を強めると同時に、地域における医療的・福祉的社会資源を充実しそれらとの連携を強めることが重要である。
 統合には一般に理解されているように、障害児を健常児の中へ統合することだけでなく、いわゆる縦割行政の克服を含んで諸制度、諸サービスの統合、諸分野の専門家の統合(連帯ないし相互協力)ということを含んでいる。
 関係者がこうした統合を実現する力量をもつことが、諸外国のインテグレーション論議の中で強く主張されている点でもある。
 これまでのように自己の狭く限定された分野での専門性でなく、他分野との結合を進める力量をも専門性の中身と考えることは重要である。
 そこには当然社会科学的認識と洞察の力量が含まれるであろろう。
 他との連関を欠いた狭い「専門」的技術は克服されねばならないが、それへの反発のあまり、専門的力量ないし専門家の存在を否定し、それに「素人」を絶対化して対置することは誤っている。
 専門職(の力量)とは何かということを前述の諸点とのかかわりで明らかにすることこそが重要なのである。
 (以上、障害児教育妨害者の「理論」批判 完全参加を目指す教育 全障研出版 1983年8月1日)


実践から距離を置いた、としながら
「学校は来るべきもの」
という教師の常識が鋭く対立した、と強固に主張する

さらに窪島氏は、次のようなことを述べている。

 不登校・登校拒否児童生徒に対して,「学校は来るべきもの」という教師の常識が鋭く対立した。
 学校批判の多くは,「学校は来るべきもの」という教育(学)の常識が不当であるという外在的批判が中心をなし,教師の願いと苦悩にわけいってその根本における理解を深めるものではなかった。
 その根拠ははなはだ情緒的であり,
なぜ,
何が不当なのか
についての理論的な説明は説得的にはおこなわれなかった。
 教師のこだわりについて,教員文化,学校文化という視点からの教育社会学的研究の成果は制度ないしシステムとしての教師の行動特性の説明として重要であった。
 しかし,身体的不調を訴える不登校・登校拒否児童生徒を前にして,「頑張って登校しなさい」「登校してくれなければ何もできない」という子どもに対する教師の言動や学校の息苦しさに対して教師の人間的感性,感受性がなにゆえ作動しなかったのかということについての説明としては不十分である。
 なにより,教師がどのように変わりうるのかということについての見通しを示せなかった。


教師の個人責任を追求し、人間性や感受性まで疑う

 窪島氏は、「学校は来るべきもの」という教師の常識を批判し、その根拠ははなはだ情緒的であると決めつける。
 さらに、「教師のこだわりについて,教員文化,学校文化という視点からの教育社会学的研究の成果は制度ないしシステムとしての教師の行動特性の説明として重要」であることする。
 だがこの文章で指摘されるのは、


1、窪島氏は、このような部分のみに主語を明確に書くという特徴がある。
  すなわち、他は極めて曖昧で、日本語の構文として成り立たないところが数多くある。


2、教師が生徒の登校を前提とするのは、教師の人間的感性,感受性がないとまで言い切り
  教師が不登校・登校拒否児童生徒から「学び」「変わって」いないかのようにも書く。

3、だが、少なくとも教育学研究者を名乗るなら日本の義務教育制度や教育制度の「出席」という    問題を知らなければならない。

 日本の義務教育制度では、学校に登校して授業を受けなければ就学したとは見なされないものになっている。

過去の文部省が出した文章は読まないで…

 ここで、窪島氏のためにあえて説明しておくが、義務教育段階の授業を受けることは、すべての授業に出席しないと授業を受けたと見なされないわけではない。
 文部省(旧)の出した
「おおむね授業の半分以上に出ていないと授業を受けたということにはならない。」
という通達があるからである。


批判と言うより非難と言ったほうが適切かもしれない

 そういうことは、教育学部の教授であれば当然知っていることである。
 だが、彼はそのことすらも知らないか、知っていても無視して、教師は生徒たちが登校するよう、出席するように生徒に働きかけることを問題にする。
 生徒の状況を配慮して援助が必要である、と窪島氏は言わない。
 だだ彼は教師を批判をするだけである。
 これは彼の批判と言うより非難と言ったほうが適切かもしれない。


4、教師はそのような状況におかれているが、義務教育段階では、校長に大きな権限があることも 彼は知らないのか、知っているのか。

 義務教育段階などでは、校長が、出席が不足しているとなるとその生徒を卒業させない、原級留置にすることも出来るし、全欠席であっても卒業させる権限を持っている。

 これらの校長の権限の行使の如何によって、教師が振り回される制度上の問題やそこから生じる現実を彼は見ようともしていない。
 
 

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